熊野古道小辺路① 高野山から水ヶ峰を越えて大股へ
高野山と熊野本宮大社をつなぐ熊野古道の小辺路(こへち)。二大聖地を最短距離で結ぶ道といわれているが、紀伊山地の険しい山岳地帯を越えるため、熊野参詣道の中で最も厳しいルートのひとつとされる。ここでは、最初のパートである高野山から水ヶ峰越えを経て大股に至る区間を紹介しよう。
写真・文=児嶋弘幸、カバー写真=タイノ原林道から伯母子峠方面を望む
熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は熊野三山と称され、これらをめざす参詣道・熊野古道には紀伊路、中辺路(なかへち)、小辺路、大辺路(おおへち)、伊勢路がある。小辺路は紀伊半島の山岳地帯を越える険しい道のりで、途中1000m級の伯母子峠(おばことうげ)、三浦峠、果無峠(はてなしとうげ)の3つの峠を越える必要がある。また冬季には積雪の恐れもあるため、熊野参詣道の中で最も厳しいルートのひとつだ。反面、標高の高い山越えルートなので展望ポイントが多く、自然豊かなルートでもある。一度に歩く場合は最低3泊4日は必要だが、それだけに歩き通せた達成感はひとしおだろう。
今回紹介するのは小辺路の一部、高野山から水ヶ峰を越えて大股集落までの区間。長丁場の山越えとなるため、朝早くからのスタートが望ましい。
高野山内の千手院橋バス停からスタート。真向かいの金剛三昧院(こんごうさんまいいん)入口にある碑に従って進む。路地に入って金剛三昧院参道を左に見送り、ろくろ峠へ。ろくろ峠は、大滝口女人堂が築かれていたところ。女人禁制時、女性たちは、ここより先の高野山内に入ることが許されなかった。江戸時代の地誌『紀伊国名所図会』には、ろくろ峠から高野山内を覗き込む女性たちの様子が描かれている。
ろくろ峠からは、しばらく平坦な林道歩きが続く。左下に女人道(にょにんみち)を見送ったのち、薄峠(すすきとうげ)で左手の古道に入る。やがて「かうや山工四十丁 くまの本宮工十七里」の道標石と出合う。側面には大阪、奈良、和歌山方面への距離が記されている。当時、多方面から参詣者が小辺路を訪れていたことがうかがえる。
なおも下りが続いた後、御殿川にかかる鉄橋を渡る。江戸時代の参詣記『熊野めぐり』で、「此処にふかき谷川有り、水いさぎよく流れ、丸木を渡して橋とす」と記述があるところだ。すぐの分岐を左にとると高野大滝だが、ここでは右の「馬殺し」と呼ばれる急坂を登り、大滝集落に入る。集落内には、紀州徳川家に献上されたことからその名がついた名水「葵の井戸」があり、大杉の根元から絶え間なく水が湧き出ている。大滝には休憩舎があるのでここで小休止しよう。
ひと休憩したのち、杉林の間を緩やかに登っていく。やがて高野龍神スカイラインと合流。しばらくして小さな鳥居が立つ荒神岳(こうじんだけ)の遥拝所に着く。現在は樹木が茂り展望は得られないが、紀州藩の自然学者、畔田翠山(くろだすいざん)の著書『和州吉野郡群山記』に「大滝村より登り坂、七 、八丁。道険しからず。(略) 道左に、嶺の荒神山見ゆ」と記されているところと思われる。
すぐ左上のブナ・ミズナラが茂る水ヶ峰越えの古道入り口に着く。水ヶ峰は同記に「茶店四軒有り」と記されるように江戸時代ににぎわった旅籠跡で、老杉と石垣がかつての面影を伝えている。
タイノ原林道に入り、このあとの古道は林道の造成によって、林道と交差・併合しながら進む。左手に山容のきれいな荒神岳を望む。各集落との分岐となる桧股辻、北股辻、今西辻を経て平辻(たいらつじ)へ。平辻はかつての茶屋跡で、大小2体の道標地蔵が置かれている。「右くまのみち これより本宮まで十四り半」の碑文があり、熊野本宮までの距離が示されている。ここからは古道を一気に下って県道に降り立つ。県道を右に進むと大股集落はすぐだ。
大股からはバス利用ができるが、本数が少ない。大股近辺で1泊するプランがよいだろう。周辺の宿泊施設としては、かわらび荘、ホテルのせ川がある。
MAP&DATA
コースタイム:高野山~ろくろ峠~大滝集落~水ヶ峰入口~大股 :約5時間45分
プロフィール
児嶋弘幸(こじま・ひろゆき)
1953年和歌山県生まれ。20歳を過ぎた頃、山野の自然に魅了され、仲間と共にハイキングクラブを創立。春・夏・秋・冬のアルプスを経験後、ふるさとの山に傾注する。紀伊半島の山をライフワークとして、熊野古道・自然風景の写真撮影を行っている。 分県登山ガイド『和歌山県の山』『関西百名山地図帳』(山と溪谷社)、『山歩き安全マップ』(JTBパブリッシング)、山と高原地図『高野山・熊野古道』(昭文社)など多数あるほか、雑誌『山と溪谷』への寄稿も多い。2016年、大阪富士フォトサロンにて『悠久の熊野』写真展を開催。
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