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比企丘陵東端続き(とうかん山古墳、吉見神社、増田氏館跡、平良文館跡など)

大福寺、船木神社、保安寺、とうかん山古墳、玉太岡神社、吉見神社、津田八幡神社、火防稲荷神社、西明寺、高城神社、正福寺、妙安寺、岡諏訪神社、赤熊神社、薬師寺、瀬戸山古墳群、白鬚神社、増田氏館跡(文殊寺)、平塚新田八幡神社、登由宇気神社、茶臼塚板碑塔婆( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りのち晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→吹上

復路:熊谷→湘南新宿ライン→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

吹上駅6:15→荒川(大芦橋)6:46→大福寺6:58→船木神社7:17→保安寺7:32→とうかん山古墳(北郭館跡?)7:36→玉太岡神社7:49→吉見神社8:00→高城神社旧地8:13→津田八幡神社8:29→火防稲荷神社8:37→西明寺8:41→高城神社8:57→正福寺9:02→有氏神社9:05→妙安寺・武州上岡馬頭観音・岡諏訪神社9:28~42→赤熊神社9:51→薬師寺(薬師寺1号墳)10:12→瀬戸山古墳群(白鬚神社)10:18→増田氏館跡(文殊寺)10:45~55→平塚新田八幡神社11:21→登由宇気神社11:41→茶臼塚石塔婆(村岡集会所、平良文館跡)11:54→高雲寺12:03→荒川大橋12:23→賢勝院12:42→熊谷駅12:46

合計6時間31分

コース

総距離
約25.3km
累積標高差
上り約107m
下り約97m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

4月16日(土)は、比企丘陵の続きで、先週と先々週の間の行き残しを回って来ました。残り物なのでたいした物はないのですが、いっておかないと、後で面倒になるので。

スタートは先々週と同じ「吹上駅」です。荒川までの行く間の寄り道できる場所は先日行ってしまったので、一直線に荒川の大芦橋を目指します。

荒川の橋を渡ってすぐあるのが「大福寺」という地蔵菩薩を本尊とする真言宗智山派の寺院です。それ以上のことは良くわかなかったので写真だけ撮ってサヨウナラしようと思ったのですが、本堂の裏に土塁のような物がありました。洪水防止用にしては片側しかなく役に立たないので、土塁か掘り崩した塚としか考えられないのですが、誰かの居館の跡だったのでしょうか?

大福寺から先々週と反対側に曲がり、北西に進んで行くと荒川の河岸段丘上にある分譲住宅地の端に「船木神社」があります。ここは荒川や和田吉野川の水運の無事を祈る神社で、船木は船来つまり舟で渡って来る地だったのではないかと推定されています。昔は河岸段丘の下にあったらしいのですが、工業団地の造成に伴い高台に移されたそうです。高台なので展望は抜群で栃木の三毳山が見えました。

船木神社の北側にある「保安寺」も、曹洞宗寺院で、慶長18年(1613)に創建されたぐらいしかわかりません。今は紫陽花寺として有名だそうです。

保安寺の近所には「とうかん山古墳」という全長約74m、高さ約7mの熊谷市で最大規模の前方後円墳があります。発掘調査は行われてませんが、古墳時代後期の6世紀中~後期頃に造られたものと推定されています。山頂におとうか様と呼ばれる稲荷社があるのでとうかん山と呼ばれているそうです。この前行った「甲山古墳」から約1kmと距離的に近いので、関係性が指摘されているそうです。またこの辺りに「北廓館」という時代も築城者も不明の居館があったという説もありますが、根拠が箕輪という地名だけなので、なんともいえないです。

玉太岡神社は、江戸期に岡郷の鎮守であった神明社と雷電社が、明治4年に合祀され玉太岡神社と改称され村社となった神社です。玉太岡の名は神社の西方にある光福寺の国宝にもなっている元享3年(1323)の宝篋印塔に「武州比企郡玉太岡四国山光福寺」と刻されているところからとったそうなのですが、たぶん丸い丘という単純な意味だと思います。

そして次は今日の一番行きたかった「吉見神社」です。ここは吉見=横見との説から、式内社の横見神社の論社になっている神社です。由緒は景行天皇56年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、多くの里人を移して多里郡(大里郡)を設置し、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀ったとも、御諸別王が関東下向の時、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成ったことから天照大神を斎い祀ったとも伝えらる神社ともいわれているのですが、いずれにせよこの辺りは、平安時代には武州恩田御厨と称される伊勢神宮の神領であったにもかかわらず、和田川と吉野川が合流して和田吉野川になる洪水多発地帯で、しかもより危険な荒川にも近く、荘園の五穀豊穣を願うと共に天災を防ぐために神明社を祀るのは必然的なことだったろうと推測されます。さらに熊谷に通じる街道がすぐ脇を通っていたともいわれています。しかし度重なる戦乱と洪水で衰退し、当初は上吉見領23ヶ村の総鎮守として祀られていたものが、江戸期にはついに相上のみの鎮守となってしまったそうです。ただそれでも明治17年に郷社に列格しており、現在の神社の雰囲気も、けっして大きくはありませんが、なかなか良いです。

吉見神社から和田吉野川を渡ると、ここも式内社の論社である「高城神社」の旧地があります。和田吉野川の河川改修のため、移転させられたようです。吉見神社の脇に残る古い堤防から察するに、かなり大きく蛇行していたものを直線にしたのだと思います。

その先の微高地の東端にある「津田八幡神社」は、応永21年(1414)の足利持氏寄進状に鶴岡八幡宮の放生会料所が津田郷にあったとが記されていることから、その頃に創建祀られたのではないかと推測されています。明治初年村社に列格、明治45年諏訪神社が祭られていたこの場所に遷座されたといわれています。あと本殿の裏に小さな「根精様」が残っています。

次の「火防稲荷神社」は、西明寺住職秀勝法印が、火災等の災厄除けに京都伏見稲荷を勧請して寺地薬師堂隣に勧請した神社です。かつては牛頭天王社・天満宮と並んでおり、全部先程の津田八幡神社に合祀されたそうなのですが、「火防稲荷神社」だけ祟りを怖れてこの場所に残されたということです。社地の盛り上がりが小さいものの古墳っぽくもあるので、そのせいかもしれません。

その「西明寺」ですが、ここは真言宗智山派寺院で、創建年代等は不詳ながら、江戸時代後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』に「新義眞言宗、相上村華蔵寺末、瑠璃光山と號す、法流の祖を傳譽と云、正徳三年寂す、本尊彌陀」と記されているそうです。高い無縁仏の地蔵塔があります。

そしてもう1つの式内社の論社の「高城神社」です。この神社は熊谷駅北口にある同名の神社が式内社の本命なのですが、ここも吉見神社の社家徳永豊洲が文久3年(1863)に社地に接する場所に家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を発見したという伝承が残っており、式内社の論社となっています。ただここは先程書いたように河川改修で社地が変わっており、現在の社地は、昭和4年に、当時の村助役であった田所泰造の記した『延喜式内高城神社誌』によれば「和田吉野川の流れに近い中街に古く鎮座していたが、流れが変わり当社は下流の中ノ森(※河川改修で立ち退きになった先程の旧地)に流された。これを神慮であるとして以来この地に祀られる」と書かれていることから、最初の中街に戻っただけだということなのですが、新しく建てられた社殿があまりに小さく寂れきった感じなのがどうにもいただけません。神社の場所も集落の外れの田んぼの中で、たぶん昔はもっと集落のある微高地の中心に近い場所にあったのではと推測されるのですが、たぶん土地がなかったのでしょうね。

高城神社のあるその微高地の一番高い場所にあるのが、真言宗智山派寺院の「正福寺」です。現在は無住の寂れきったお寺ですが、江戸時代後期に編纂された「新編武蔵風土記稿」によれば「新義眞言宗、今泉村金剛院末、沼黒山法性院と號す、本尊地蔵、」と記述があることから、江戸期にはすでに創建されていたと推測されています。ただ高城神社が別の場所に移転していたため別当寺ではなかったようです。

でもそのすぐ近所に由緒不明の「金鑚神社」があります。ここは個人所有のような小さな神社なのですが、地図には金鑚神社と記されているものの、石碑は「有氏神社」となっており、単なる金鑚神社の講の神社ではなく、武藏七党の1つ児玉党の子孫が祖先である「有道氏」を祀った神社である可能性があります。あくまで推測ですが、児玉党の宗家の血筋が戦に破れてこの辺りで帰農したのかもしれません。

再び和田吉野川を渡ると、「妙安寺」と「上岡諏訪神社」が並んであります。と書く予定だったのですが、もう1つ妙安寺や上岡諏訪神社以上に立派な「上岡馬頭観音」の大きなお堂があり、どうもこの場所はこの馬頭観音のお堂中心に成り立っている模様でした。完全に下調べの範囲外だったので整理して一応憶測を述べておきます。

まず最初にこの場所にあったのは「上岡諏訪神社」でした。曹洞宗寺院の「妙安寺」は諏訪山と号することから、寺の創建時には諏訪神社が既にこの地に存在していたと考えられ、諏訪神社の祈祷所として創建されたのではないかといわれています。「上岡諏訪神社」は、岡の上地区の鎮守として祀られてきた神社で、この辺りは水害の多い場所であったため、それを避けるために祀られたのではないかといわれていますが、江戸時代に「妙安寺」が別当となったため、寺の境内に祀られてるようになったそうです。しかし文政元年(1818)に妙安寺に隣接する現在の場所に遷されたそうです。一方「上岡馬頭観音」は後年、妙安寺の住職によって祀られるようになったものらしいので、あくまで憶測ですが、地元とのトラブルか何かで「上岡諏訪神社」を祀ることが出来なくなった妙安寺が、その代わりに「上岡馬頭観音」を祀るようになったと考えるのが一番自然なような気がします。さらに馬頭観音のお堂がある高台には元は諏訪神社が建っていたのではないかと。ただ水害除けの神社がいきなり馬を祀る観音に変わるというのも唐突なので、もう少し色々調べてみないと結論は出せません。

上岡諏訪神社から少し山に上がったところに「赤熊神社」という変わった名前の由緒不明の神社があります。ここも推測なのですが、埼玉県北西部という場所柄、赤城熊野神社だったものが略されて赤熊神社になったような気がします。神社のある高台も裏の木がなければ赤城山が大きく臨めそうですし。

赤熊神社の先の「新屋敷ほたるの里」という耕作放棄地の棚田を園地風に整備したところのベンチで少し休憩。

和田川が吉野川に合流する三角地帯にある「薬師寺」は曹洞宗という以外、ここも良くわからないのですが、でもここには「薬師寺1号墳」という古墳があります。2号3号もあったらしいのですが、墓地の造成で消滅してしまったそうです。

その少し先の「白髭神社」には「瀬戸山古墳群」というものがあります。「白髭神社」は「伊勢山古墳」という前方後円墳に乗っているらしいのですが、上に小さな墳丘が3つあるだけで、朝行ったとうかん山古墳のようにはっきりそれとわかる物ではありません。「瀬戸山古墳群」全体では、かつては20基以上の古墳が所在していたらしいのですが、現在残っているのは14基ほどだそうです。

そして丘の上の道をしばらく歩き、先週微妙に遠くて行けなかった「増田氏館跡」に向かいます。ここは古河公方の家臣であった「増田四郎重富」の居城です。後に「高見城」を築いてそこに移るまでここを拠点にしていたそうなのですが、遺構は寺の裏の平地林に土塁とも塚とも言えるような物があるだけで、はっきりした物はありません。北側に堀っぽい物もありますが、単なる田んぼの用水路にも見えます。あと墓地にある「増田四郎重富の五輪塔」も案内板がないので他の物と判別不能です。

曹洞宗の「文殊寺」は日本三大文殊のひとつである「野原の文殊さま」として有名な寺院で、寺そのものも大きな仁王門と山門を持つ立派なものです。さらに裏には新座の平林寺や三芳町の多福寺のような散策可能な広い平地林がついています。文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」のことわざ通り、知恵をつかさどる仏さまで、昔から学業成就の願いを求め、県内外からも多くの受験生や観光客が訪れるそうです。特に文殊寺の大縁日の2月25日は受験シーズン真っ只中なので、大勢の人々で賑わうそうです。

文殊寺から熊谷駅に戻ります。まず合流する前の和田川を渡り、吉野川手前の河岸段丘上まで来ると河岸段丘の林の中にあるのが「平塚新田八幡神社」です。ここは享保18年(1733)の検地により成立した平塚新田村の鎮守で、明治7年には村社に列格した神社です。『風土記稿』によると、草原の中に塚があったことに由来するとあり、実際、昭和20年頃までは地内には3基の古墳があり、最も大きな古墳は大塚山と呼ばれていたとのことなので、昔は古墳上にあったのかもしれません。神社の鎮座地の河岸段丘も塚こそありませんが八幡山と呼ばれているそうです。またこの神社は昔は「赤旗八幡」と呼ばれており、この神社に合祀された原新田の八幡神社は「白旗八幡」と呼ばれていことから、平氏と源氏の子孫が祀る神社であったのではないかともいわれているそうです。

河岸段丘下の田んぼの中を進むと、荒川の橋の少し手前に「登由宇気神社」があります。この神社がある村岡も群れ岡という小さな岡が多数あったことから付けられた地名ということなので、ここも古墳が起源のの神社であった可能性があります。また平安中期には関東平氏の実質的な祖である「平良文」がここに館を構え村岡五郎と称したという伝承も残っているそうです。「登由宇気神社」は、神社としては基本的に神明社だったのですが、明治維新後現在の名前に社号を改め、村社に列格しました。

「平良文(村岡五郎)」の屋敷ですが、登由宇気神社から少し西へ行った「茶臼塚板碑塔婆」とその横の平良文を奉った「観音堂」(老朽化のため現在は「村岡集会所」になっている)がある周辺にあったといわれているのですが、大昔の人なので当然遺構などは残っていません。ただ「茶臼塚板碑塔婆」がある辺りはまとまって周囲より若干高い微高地になっており、北側にに堀のような形で農業用水が流れているので、館があった可能性はあります。「茶臼塚板碑塔婆」はかつてここにあった茶臼塚古墳から掘り出されたもので、高さが331mある熊谷市最大の板碑です。一説によると承久3年(1221)に、近江勢多の戦いで戦死した熊谷直国(直実の孫)の53回忌に、直国の子供たちが亡き父親と存命する母親の幸せを願って文永10年(1276)に建てたものと言われています。

その少し先に「高雲寺」という曹洞宗寺院があり、ここも平良文の館があったのではといわれる場所なのですが、「茶臼塚板碑塔婆」周辺より一段低いのが問題。

荒川大橋で再び荒川を渡って熊谷駅を目指します。

荒川を渡ったら、しばし桜の名所といわれる堤防の上を行きます。既に散ってはいるのですがいいところなので、先週、先々週あたりはかなりの人がお花見に訪れていたのではないかと思います。土手から降りたら公園に「D51」がありました。

そして最後に熊谷駅南口にある「賢勝院」という日蓮宗寺院に寄ってみました。この辺で日蓮宗というと東松山の上田氏が真っ先に頭に浮かぶのですが、ここは江戸時代末期の嘉永2年(1849)に荒川堤防が決壊した際に、犠牲者を悼むために造られた弁財天を管理する別当寺として創建された寺のようです。駅チカなのにここも無住でした。

そして朝から6時間半かけて、ようやく熊谷駅南口に到着しました。お疲れ様でした。ちなみに熊谷の名前の由来は「曲谷」で、荒川が大きく蛇行する場所という意味だそうです。江戸時代の河川改修で、台地を突っ切って元荒川の方に流れていた荒川を強引に曲げて入間川の方に流れるようにしたのため、越谷などの下流域の洪水は減ったものの、熊谷周辺はかえって洪水が増えてしまったそうです。

今日は熊谷駅南口の駅ビルの1階に入っている「風風らーめん 熊谷南口店」で昼飯にすることにしました。風風らーめんは埼玉県を歩いていると良く見かけるラーメンチェーン店なのですが、入るのは今日が初めてで、看板の色と名前の感じから勝手に激辛ラーメン店だと思い込んでいたのですが、博多風のとんこつラーメンの店でした。で、とんこつラーメンの唐揚げセット1,170円を注文。味は博多風ラーメンの中ではかなりマイルドな感じです。でも個人的な好みでいうと、もう少し屋台風の濃い味の方が関東の人の口には合うかなという気がしました。あと埼玉的にはちょっと値段が高い気もしました。

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