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熊谷直実と久下直光(旧新川村跡地、久下神社、熊谷寺、高城神社など)

久下一里塚、荒川決潰の碑、旧新川村跡地、外三島神社跡、久下神社、東竹院、久下氏館跡、元荒川源流、熊谷之次郎直実像、竹井本陣跡、奴伊奈利神社、熊谷寺、忍藩陣屋跡、千形神社、高城神社、箱田神社、肥塚伊奈利神社、成就院、報恩寺、袖引稲荷神社、東武鉄道熊谷線跡( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇りのち晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→上野→高崎線→行田

復路:石原→秩父鉄道→熊谷→熊谷うどん 熊たまや→熊谷→高崎線→赤羽→埼京線→恵比寿→山手線→目黒

この登山記録の行程

行田駅6:16→久下一里塚6:24→荒川決潰の碑6:29→旧江川村石仏群6:37→旧新川村跡地6:52→三島神社跡7:12→輪型の碑7:30→久下神社7:35→市田館跡7:42→久下館跡7:50→権八地蔵8:04→東竹院8:18→元荒川源流8:31→佐谷田大雷神社8:38→八丁の一里塚8:46→稲荷木伊奈利神社9:00→円光寺9:03→熊谷之次郎直実像9:15→札の辻跡9:26→円照寺9:29→星渓園9:32→石上寺9:34→愛宕八坂神社9:40→竹井本陣跡9:47→熊谷寺9:52→奴伊奈利神社9:53→忍藩陣屋跡・千形神社9:56→高城神社10:00→祇園枝垂桜「千代鶴姫」「玉津留姫」10:13→箱田神社10:19→文殊院10:26→肥塚氏供養板塔婆10:40→肥塚熊野神社10:44→肥塚館跡10:47→肥塚伊奈利神社10:52→成就院10:54→報恩寺11:05→袖引稲荷神社11:09→東武鉄道妻沼(熊谷)線跡11:18→大原稲荷神社11:23→秩父道しるべ11:28→熊谷温泉 湯楽の里11:46~12:56→石原駅13:02

合計5時間36分(温泉除く)

コース

総距離
約19.8km
累積標高差
上り約43m
下り約30m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

5月7日(土)は、行田駅から熊谷の中心部を熊谷直実と久下直光の史跡中心に回って来ました!スタートは高崎線の行田駅です。「行田駅」は最初は秩父鉄道「行田市駅」が名乗っていたのですが、国鉄に駅名を譲ったそうです。

行田駅西口を出て5分もしないうちに荒川の巨大堤防があります。その手前を流れる水路みたいな川が「元荒川」です。元荒川を越えて荒川の堤防に取り付くと、西側の堤防の下に「久下一里塚」があります。昔のこの辺りの中仙道荒川の堤防を通っていたのですね。周りが全部低地なので人工的に土を盛って高くした堤防の上が一番安全という考えなんだと思います。この一里塚は日本橋から14里目に当たるそうです。

少し東に戻ると「荒川決潰の碑」があります。これは江戸時代に荒川の流路を変更する前の話かと思いきや、1954年(昭和29年)9月のカスリーン台風の時に起きた事件だそうです。台風の大雨でこの地点で荒川の堤防が決壊して大洪水が埼玉県北部の村を次々と襲い、運悪く利根川も決壊したため、2つの濁流は合流してはるか彼方の東京にまで達し、甚大な被害を与えたそうです。

決潰の一番の原因は台風による大雨なのですが、もう1つの大きな原因は、江戸時代に関東郡代伊奈忠次・忠治親子が荒川の流れをこの辺りで大きく曲げて入間川に合流するようにしたことだといわれています。荒川の流路変更によって大宮台地東側の町や村は慢性的な洪水被害を免れることができ、新田開発も進んだのですが、元々台地を貫いて反対側に流れ込んでいたものを無理矢理塞き止めたため、台風による大雨に耐えきれなかったようです。

荒川決壊地点から元荒川の源流を越えて熊谷駅南口手前辺りでまでが、「久下直光」の領地でした。途中の河川敷に「新川村」という消えた村があるので、まずそこから見ていきます。

荒川の河川敷に下りると、まず「旧江川村石仏群」というお墓の跡があります。ここが、旧新川村の入口で下分の江川村との境にあたるそうです。

河川敷に広がる広大な田畑の中を進んでいきます。昔はほぼ水田だったのでしょうが今は麦畑が多いです。「新川村」は、荒川の流路変更によって江戸に通じる舟運のルートが拓け、人口が急増した比較的新しい村でした。秩父山中から流された材木はここで筏職人が筏舟にして江戸へと運ばれ、河岸には廻船問屋や筏問屋、塩問屋、油問屋が軒を並び、江戸浅草と武州新川を結ぶ荒川を帆掛け船も往復しており、最盛期には500人余りの人々がここで暮らしていたそうです。しかし、明治16年の鉄道の開通によって舟運は衰退し、それでも肥沃な土壌で育つ良質な桑が特産となって村は存続していたのですが、生糸の暴落で養蚕も廃れるようになると、大水に耐えてこの地に住み続けるメリットもなくなり、人々は徐々に村を去り、ついに昭和47年頃に無人の村となったそうです。ただ農地は存続しているため、住所だけは残っています。あちこちに残る小さな林が屋敷森の跡です。中には大尽屋敷という屋号を持つ高い盛り土の上に建っていた家の跡もあったので、陣屋のようなものかと思って調べてみたら油問屋でした。ただ明治期に村長も務めたそうです。

旧新川村については下記のHPで詳しく知ることができます!
[川と森と人々の暮らし ようこそ幻の村 新川エコミュージアムへ]
http://shinkawa-muse.net/index.html

新川村の西の端まで行くと、「地蔵堂」と鳥居が藪に埋もれた「三島神社跡」があります。社は土台の上に残骸があるだけで、脇に宇賀神と塞神の石碑が残っていました。ここは「外三島神社(新川三島神社)」という久下氏館の守りとして建てられた2つの三島神社のうちの1つで、現在は堤防の外にある「久下神社」に合祀されています。ちなみにもう1つの三島神社である「内三島神社(久下三島神社)」は、久下橋の下辺りにあったといわれる「久下館」近くの旧中仙道沿いにあったらしいのですが、何も残っていません。

荒川の堤防を越え坂道を下って行くと、「久下堤の碑(輪型の碑)」という石碑があります。「久下堤の碑」は元荒川を締め切るために築かれた久下堤を4kmにわたって修復した記念碑で、明治45年(1912)に建立されています。「輪型の碑」は横にあるカルタに名前があるだけなのですが、中仙道の堤防に上がるこの坂道は往来が激しく、いつも大八車の轍がついていたことを忍ぶという碑のようです。

その先の小学校の隣にあるのが「久下神社」です。元は久下直光が鎮守として創建した「三嶋社(内三島神社、久下三島神社)」で、明治維新後に近隣の10社を合併し村社となり、大正2年にはさらに14社を合併し「久下神社」と改称しています。この時に先程の外三島神社も合併されたそうです。そして翌3年に水害を避けるために「伊奈利神社」のあったこの場所へ移転したということです。「久下氏館跡」は内三島神社のあった辺りにあったと伝わるので、伊奈利神社のあった場所に移転した今の久下神社は久下館跡ではありません。久下館と内三島神社のあった場所は、先程書いたように久下橋の下の河川敷で、今は畑と原っぱになっています。

「久下氏」は、清和源氏の祖源満仲の弟の武末の孫の基直が久下の開発領主となり久下氏を名乗ったのが始まりとも、武蔵七党に属するかどうか微妙な「私市党」の系統ともいわれる一族で、源頼朝旗揚げに際しては、最初大庭景親に味方していましたが、後に頼朝に従い、一ノ谷の合戦などで戦功をあげています。久下直光は熊谷直実の母の姉妹を妻にしていた関係から、熊谷氏とは親戚で、父を失い孤児となった直実を引き取って育てますが、後に直光の代官として京に上った直実が直光の家来としての扱いに耐切れず、勝手に平知盛に仕えてしまい、怒った直光は直実の所領を取りあげ、以降、直光と直実は激しい所領争いを繰り広げることとなります。久下氏は関東ではこの所領争いが有名ですが、平家との合戦の恩賞で丹波国に領地を得、承久の乱(1221)で久下三郎が幕府軍の一員として京都へ上って、関東に戻らず定住してからの方が活躍しています。特に足利将軍時代の活躍が目覚ましいです。

旧中仙道を進むと「市田氏館跡」というものがあります。あるといっても何もないのですが、市田氏は久下氏の庶流で、忍城の成田氏の家臣だったようです。『成田記』によると、明応年間(1492~1501)に市田弥三郎兼行が忍城主成田氏に降り、兼行の孫の長兼は成田氏長の妹を妻としたそうです。その子太郎(信友)は、秀吉の小田原攻めでは忍城の戦いに参戦し、北条滅亡後は成田氏と共に会津の蒲生氏の預かりとなり、この時に市田氏館は廃されたらしいです。市田氏はこの他に深谷上杉氏の家臣だったという説もあり、成田氏と上杉氏は同盟関係にあったこともあるで、市田氏の立ち位置が気になるところです。

久下橋の下にあったと言われる「久下氏館跡」は、さっき書いた通り何もありません。

そのまま荒川沿いを行くと「権八地蔵」があります。罪を犯した平林権八という男がこのお地蔵さんに告白し、最後に「誰にも言うな」と言ったところ、お地蔵さんが「我は言わぬが、汝が言うな」と返したという民話が残っています。

権八地蔵の前の児童公園に「至松山」と書かれた石碑があるのですが、これはかつてこの場所に「久下沈下橋」という大水が出た時は川に沈む橋があって、東松山に行く道が繋がっていた時の名残りです。

さらに荒川沿いを行くと、「東竹院」という曹洞宗(元は天台宗)の寺院があります。ここは建久2年(1191)に久下重光が開基となって創建された寺院です。墓地には久下氏の墓と伝わる五輪塔があります。

東竹院から少し進むと「元荒川源流」があります。荒川の流れを塞き止めたので水は流れていないはずなのですが、灌漑用の水をポンプで汲み上げて流しているそうです。浄水場のように見えるのは魚の養殖の実験施設だそうです。元荒川にはその他に流域の湧水や生活・農業排水も流れ込んでいるとのことで、ちなみに源流越谷市大字中島で中川に合流するまでの総延長は60.7kmあるそうで、標高は約25mだそうです。

元荒川源流にほど近い場所にある「佐谷田大雷神社」は雨乞いの神社だったそうです。かつては神事を行った湧水の池があったそうです。この神社の前の汚い川も元荒川の源流の1つで、神社の前で流れが細くなった先はどうなっているか見ながら行ったら、すぐに水が涸れ、広い車道にぶつかったところで終わっていました!

ここで荒川から離れます。「八丁の一里塚」は公園の角に小さな社のみなのでが、このあたりが熊谷直実と叔父の久下直光が領地争いの境界線だったそうです。

中仙道のバイパスに出ると、稲荷木伊奈利神社」があります。由緒ははっきりしませんが、建立は文明18年(1486)以降のことで、宝永元年(1704)8月の洪水で流失し、再建されています。

その北側にある「円光寺」は、浄土真宗本願寺派が関東一円に設けた説教場の一つだそうです。大正3年に築地本願寺中にあった円光寺の名跡を当地へ移したそうです。熊谷に説教場が出来たのは、その昔あった熊谷県の第二代県令との楫取素彦夫妻が熱心な浄土真宗の信者で、その後押しもあったためだそうです。

熊谷駅北口に着きくと、「熊谷之次郎直実像」が出迎えてくれます。これは1974年に設置された北村西望作の銅像で、台座2m、銅像は3mあり、挙扇は平家の若武者「平敦盛」を差し招いているそうです。熊谷氏は桓武平氏の流れをくむ一族で、熊谷直実の父直貞の時代から大里郡熊谷郷の領主となり、熊谷氏を名乗るようになったと言われています。しかし2歳の時父を亡くし、母方の伯父である久下直光に育てられています。その後、久下直光の代理として京都へ上がり、皇居の警備に当たるも、直光の家人としての待遇に納得がいかず、無断で平清盛の第4子である知盛に使えるようになり、直光が怒って熊谷郷の一部を取り上げたことが長年に渡る直光と直実の領地争いのきっかけになりました。その後、直実や直光は1180年の石橋山の戦いまでは平氏に従っていたものの、やがて源頼朝に従うようになり、直実は数々の戦で常に先陣をきって戦い名をあげ、当代一の剛の者として畠山重忠や岡部忠澄らと並び称される鎌倉を代表する武士に成長します。しかし一ノ谷の戦いで息子ほどの年齢(17歳)の平敦盛を打ち取ったことで心に深い傷を負い、戦の非情さやこの世の無常観を感じるようになったことが後の出家の動機となったといわれています。また奥州征伐の軍功で直実は頼朝から熊谷領の支配権を約束されましたが、これはまた久下直光との間の火種となり、ついに建久3年(1192)、所領争に決着をつけるため幕府に訴え出て裁判を受けることとなりますが、直情型で口下手な直実は立ち会った梶原景時が久下直光と図って自分に不利な判定を出したと思い込み、裁判の途中で書類を叩きつけて髪を切り、出家してしまいます。続きは熊谷寺の項で!

「札の辻跡」は江戸時代の高札の掲示場の跡で熊谷市の指定史跡となっています。中仙道の案内板が置かれています。

次の「円照寺」は自称千年の歴史がある熊谷市最古の天台宗の名刹らしいので寄ってみましたが、「新編武蔵風土記稿」等では半分由緒不明のになっている、よくわからないお寺です。ただ高城神社の境内にある熊野神社と関わりがあるようなので、元は修験道の寺院だったのかもしれません。

真言宗智山派の「石上寺」は回遊式庭園の「星渓園」と隣接しているので、寺の庭が開放されているのかと思っていたら違いました。「石上寺」は、熊谷町の名主竹井新左衛門信武が開基となり、息子で僧の榮光が寛文11年(1671)創建した寺院で、周りより一段高い塚のような場所にあるのですが、これは台地の切れ端や自然堤防ではなく、鉢形城主北条氏邦が造らせた荒川の堤防の一部だそうです。そして隣の星渓園の池は台地の縁に湧いた湧水ではなく、堤防決壊の痕で、荒川の伏流水が湧き出すようになって池が出来たのだそうです。ちなみに氏邦の堤防は、戦後復興のため全部崩されて、残っているのはここだけ。

「愛宕八坂神社」は、本山派修験の大善院という寺が建てた愛宕大神す。そこに市神・八坂・伊奈利の三神を合祀し、愛宕牛頭天王稲荷合社と称したとものの、明治維新後に神仏習合色を消してシンプルに愛宕神社と改称したようです。太平洋戦争終了後に今の宇佐稲荷神社の境内に遷座したということです。

「竹井本陣跡」は江戸時代の参勤交代の大名が、利用した休泊所の跡です。敷地1600坪、建坪700坪、部屋数47の国内最大規模の本陣だったそうです。

そして熊谷直実の館跡といわれる「熊谷寺」です。ここは現在、浄土宗の念仏道場になっており、ませんが、熊谷直実(法名「蓮生」)が出家後の元久2年(1205)に、彼の旧居に創建した蓮生庵が元になっていると伝えられ寺院です。その後、天正年間に熊谷寺として中興され、慶長9年には、徳川家康より30石の御朱印領も拝領しています。本堂の西側に蓮生(熊谷直実)の墓と平敦盛の供養塔があるらしいです。

熊谷寺の一角にある「奴伊奈利神社(弥三左衛門稲荷神社)」には入ることができます。ここは熊谷次郎直実の守護神として、元久2年(1205)熊谷直実の邸内(熊谷寺内)に創建しされた稲荷神社です。明治2年の神仏分離令で熊谷寺から離れ、熊谷寺にあった東照宮を合祀の上、鎌倉町八坂神社境内に遷座しましたが、明治31年に熊谷寺の前に戻ってきたようです。

「弥三左衛門」の名前の由来は、稲荷神を深く信仰していた熊谷次郎直実は、戦場で危難に合った時にはいつも熊谷弥三左衡門という武士によって助けられており、不思議に思った直実が弥三左衡門に素性を尋ねると「吾は、汝が信ずるところの稲荷明神なり。危難を救わんがために熊谷弥三左衛門と現じける」と言い、忽然と姿を消したそうです。その霊威に深く感銘を受けた直実は、熊谷には戻ると熊谷寺内に祠を設け稲荷大神を祀り、館の鎮守としたとのことです。

「千形神社」は、熊谷直実の父の直貞が巨大な熊を退治した際に、熊の血が流れた地に創建したといわれる神社で、血形明神と称していたといいます。熊を退治したお礼に直貞はこの辺りに領地を得たという伝説もあります。

千形神社には熊谷に2つある陣屋の1つ「忍藩陣屋跡」でもあるのですが、また標識を見落としました!ここは熊谷を領有していた忍藩の陣屋です。

次の「高城神社」は延喜式式内社の論社です。この前、吉見町に同名の論社がありましたが、こちらが本命です。各時代の領主の崇拝を受け、江戸時代に忍藩主阿部豊後神忠秋公からの多額の寄付を受けて建設された社殿は、現在熊谷市の指定文化財となっています。また大正5年には県社に列格されています。

高城神社の境内にある「熊野神社」は、またも写真を撮り忘れたのですが、千形神社と同じような熊谷直貞の熊退治の伝説を持つ神社です。先程の円照寺が管理していたようです。

熊谷市役所の隣の中央公園に熊谷直実の娘の名「玉津留姫(姉)」と「千代鶴姫(妹)」がついた祇園枝垂桜があります。玉津留姫の近所には熊谷の固有種である「熊谷桜」もあります。

「箱田神社」は、熊谷氏ではなく忍城の成田氏関連の神社です。成田氏は武蔵七党横山党出身の一族で、天喜から寛治(1053-94)の頃、箱田郷を領有していて、氏神である賀茂御祖神社と賀茂別雷神社を祀ったのが始まりだといわれています。徳川時代の慶長4年(1599)には、10石の朱印地を受けているそうです。

真言宗智山派「文殊院」は明治維新で廃寺となってしまったために、児玉郡若泉村上河久原の慈眼寺を移転させ、文殊院として再興した寺院だそうです。河久原といったら武蔵七党の児玉党の発祥の地なので、その末裔が檀家にいたのかもしれません。

肥塚は肥塚と呼ばれる古墳か塚があったことが地名の由来といわれていますが、ここを本拠地とする肥塚氏という土豪もいました。「肥塚氏供養板石塔婆」は「肥塚太郎九郎光長墓」とも言われていて、2基の板碑が建っています。肥塚氏は私市党の私市直長が肥塚に館を構えて肥塚氏を名乗ったことが始まりとされる一族で、源平合戦では熊谷氏に従い、承久の乱には北条氏、南北朝期には足利氏に従い、10代340年にわたりこの地を領有していたそうです。

その東側にある「肥塚熊野神社」は由緒も何も不明なですが、同じ場所にある「辛神社」は、別の場所にある「辛」のつく神社を見ると韓国がらみの神社と出るので、このあたりに半島からの渡来人がいたのかもしれません。

「肥塚館跡」という遺跡もあるのですが、ここは基本的に古墳時代の集落の跡なので、肥塚氏の館跡ではないと思われます。肥塚氏の館は先程の熊野神社から成就院辺りまでの間にあったようです。

「肥塚伊奈利神社」は、最初は成就院の境内鎮守社だった神社で、神仏分離令に伴い、明治2年成就院から離れてこの場所に遷座しています。

「成就院」は真言宗智山派の寺院で、熊谷市指定文化財の「古塚古墳石棺」があります。これは石棺の蓋が残っているもので、この地にあった「肥塚」とは別の古塚という古墳から掘り出されたもののようです。

「報恩寺」は、広い境内を持つ巨大な寺院です。熊谷直実の子直家が、父の没後菩提の為に浄土宗寺院として創建したと伝わります。本尊は熊谷直実の娘玉鶴姫の守仏だといわれています。しかし江戸時代に曹洞宗に変わっています。

報恩寺の並びにある「袖引稲荷神社」は、鎌倉時代の初め、熊谷直実の娘玉津留姫がお稲荷さまが荒れ果てていたのに心を痛め報恩寺に移したものが始まりとされています。他に玉津留姫が戦乱のため離れ離れになっていた妹の千代鶴姫に巡り会いたいとお稲荷さまに願をかけたところ渡し舟で渡っている最中に、舟に乗り合わせた女性の袖と姫の袖とが生き物のように結び合ったので、話しかけてみると妹の千代鶴姫だったという話も伝わっています。

そろそろ戻ります。「東武鉄道熊谷(妻沼)線跡」は、熊谷駅と妻沼駅を結んでいた東武鉄道の鉄道路線で地元では妻沼線とも呼ばれていました。しかし元々軍の命令で群馬県太田市の中島飛行機への要員・資材輸送を目的として建設された路線で、終戦後は利用客が少なく、1983年6月1日で廃線となったということです。線路跡の一部が整備されて遊歩道(公園)になっています。「大原稲荷神社」その廃線跡沿いにあるのですが、由緒も何もわかりません。

廃線跡が旧中仙道と交差するところに「秩父道標」があります。熊谷を通り石原で中山道から分かれて、寄居を経由してゆく道です。

「熊谷温泉 湯楽の里」は先日も行きましたが、料金は平日800円、土・休日850円で、低張性・弱アルカリ性の単純温泉です。薄黄色の色がついています。

「石原駅」に着いたら今日は終了です。昼飯は熊谷駅の秩父鉄道の改札の前にある「熊谷うどん 熊たまや」に入ってみました!「タカヒロフーズ」という製麺所の直営店!

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