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武蔵野の台地を縦走(鎌倉街道堀兼道~多福寺・多聞院~いも街道など)

三ツ木原古戦場跡、東三ツ木愛宕神社、鎌倉街道標柱、光英寺、掘兼神社、堀兼の井、堀兼上赤坂の森、くぬぎ山、多福寺、木ノ宮地蔵堂、多聞院、三富新田、芋街道、南永井八幡神社、南永井稲荷神社、日比田氷川神社、日比田薬師堂、所沢観光物産館よっとこ、山田うどん食堂本店( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れのち曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→徒歩→西武新宿→西武新宿線→新狭山

復路:所沢→西武新宿線→高田馬場→山手線→目黒

この登山記録の行程

新狭山駅6:08→三ツ木原古戦場跡6:12→東三ツ木愛宕神社6:21→鎌倉街道標柱6:31→光英寺6:49→権現橋7:16→掘兼神社(堀兼の井)7:32→JAいるま あぐれっしゅげんき村7:52→堀兼・上赤坂の森7:55→くぬぎ山特別緑地保全地区8:30→三富今昔村くぬぎの森交流プラザ8:46→多福寺9:17→木ノ宮地蔵堂9:26→多聞院・中富神明社9:39→東ハト直売所9:54→芋街道(旧島田家住宅→天王様→いぼとり地蔵→大石燈籠→上富御獄神社)10:10→南永井八幡神社10:52→南永井稲荷神社11:05→日比田薬師堂11:18→日比田氷川神社11:22→所沢観光物産館よっとこ11:49→スーパー銭湯 湯の森 所沢12:08~13:46→山田うどん食堂本店14:06~40→所沢駅14:55

合計6時間35分(温泉、山田うどん除く)

コース

総距離
約23.1km
累積標高差
上り約82m
下り約76m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

6月22日(土)は、毎回群馬は遠くて疲れるので、埼玉で一度やってみたかった、新狭山駅から東所沢駅までの武蔵野核心部の縦走にチャレンジして来ました。殆ど行ったことのある場所ばかりなのですが、通しで行くのが男のロマン!武蔵野は東京の中央線沿線とかの方が小説に書かれたりして有名ですが、今武蔵野らしさを一番実感できる場所は、狭山市・所沢市東部+三芳町のこの辺りです。スケールが違います!

スタートは西武新宿線の「新狭山駅」です。駅を出たら三ツ木公園にある「三ツ木原古戦場の碑」にまず向かいます。ここは鎌倉街道の「堀兼道」が、入間川を渡って狭山市柏原の柏原城(城山砦)に向かう道と、川を渡らずに川越市方面へ向かう道に分かれる交通の要衝だったため、数々の戦いが行われました。元弘3年(1333)の新田義貞と北条高時軍の戦いや、永享13年(1440)上杉持朝が将軍義教の命で結城満朝を討った時の戦い、天文6年(1537)の川越城主上杉朝定と(後)北条氏綱の戦い、天文15年(1546)の(後)北条氏康と川越城主との戦いなどが有名です。公園の南側にある「新狭山一丁目交差点」が現代の堀兼道の分岐点です。

交差点の南方にある「東三ツ木愛宕神社」は、小さな塚の上にある神社です。場所柄、堀兼道分岐点の道標だった可能性もあります。「堀兼神社」に明治41年12月21日に合祀され、その跡地に、境内に残されていた愛宕神社石祠・七柱神社石祠・山田神社石祠をに集めて、昭和50年神殿を再度造営して愛宕神社として祀ったとのことです。堀兼神社までの距離がかなりあるので復活させたという気がします?

愛宕神社の前の道を東に進むと、つき当たる南北に走る道が鎌倉街道堀兼道です。少し南に「鎌倉街道標柱」があります。西側が河岸段丘の森の切り通しになっています。『歴史の道調査報告書』に「街道は旧丸山の池の傍らを通って対岸の丘陵に向かうが、この丘陵の北側に長さ130メートルほどの掘割及び切り通し状の遺構が現在している」と書かれています。

また南側の河岸段丘の上からは「下向遺跡」「台遺跡」「吉原遺跡」といった縄文から平安時代の集落跡が発見されています。

鎌倉街道堀兼道の跡は、堀兼中・小学校にぶつかって一旦終わります。小学校の東側に「堀兼ふるさと広場」地元のイベントを開催されている広場があり、そこに由緒不明の稲荷神社があります。

学校の南側にある「堀兼山 山王院 光英寺」は、奥富の圓照寺古跡を当地へ移す形で元禄14年(1701)に教主護國寺の門徒として創建された真言宗豊山派の寺院です。過去帳の記録から万治元年から7年の創建と云われてもいます。「入間郡誌」には宝永2年(1705)に光英寺と寺号を改号したという記述が残っています。

光英寺のすぐ南の狭山市農村環境改善センターには「堀兼の碑」がありました。堀兼村誕生125年を記念して平成26年に建てられたもののようです。

光英寺から南西へ進むと、斜めに南西に走る道と交差します。この道が再び出てきた鎌倉街道堀兼道です。左折して進むと「権現橋」という「不老川」にかかる橋に着き、鎌倉街道の標柱があります。この辺りは今は耕地整理で平らになっていますが、昔は橋のたもとに小高い丘(塚)があり、大きなケヤキの木がそびえていたそうです。その丘のたもとに祀られていた子ノ権現様が橋の名前の由来となっているそうです。今は権現様はもうありませんが、隣にあったお地蔵様がごんげん橋地蔵として残っています。

「不老川」は一直線に流路を変更され、人工の河川っぽくなっていますが、残掘川と一緒の東京都瑞穂町の狭山池を水源とする一級河川です。自然の河川なのであちこちに河岸段丘が残っています。

堀兼道を辿って堀兼の名前の由来である「掘兼神社」にまたやってきました。水の得にくい台地上に掘られた貴重な井戸である「堀兼の井」が涸れないように祀られた神社です。堀兼の井が平安時代末期にはすでに広く知られていたことから、神社もそれ以前から祀られてきたのではないかといわれています。元は富士塚の上に鎮座する浅間神社で、日本武尊東征の折、当地にさしかかったところ、大干の最中で、水を求めたものの得られなかったため、遥か西方にそびえる富士に祈ったところ、にわかに雲が湧き起って雨が降り出し、軍の渇きを癒やすことができたとも、また、里人が水不足で苦しんでいたため、井戸を掘っていつでも水が得られるようにし、その傍らに祀ったともいわれています。ただ一般的には、目印に乏しい平らな台地上に掘った井戸が遠くからわかるように塚を造り、その上から富士山が良く見えたため、いつしか浅間神社が祀られるようになったと考えられているようです。明治維新後も「堀兼浅間神社」と称していましたが、明治5年に村社に列格し、明治40年から明治42年にかけて地内の神社十二社を合祀して、「堀兼神社」に改名しています。塚の麓に浅間神社の里宮が残されています。

神社の隣にある「堀兼の井」は、「竪堀り井戸を掘る技術が確立していなかった頃に、平安中期に開拓と交通の便を図るため武蔵国府によって造成された」といわれている井戸です。この井が「堀兼の井」であるかどうか確定できないものの、堀兼の井は「枕草紙」や「千戴集」にも記載されており、江戸時代より江から史跡として知られた場所であったそうです。

「あさからす思へはこそほのめかせ 堀金の井のつつましき身を」俊頼集 源俊頼(1055~1129)
「くみてしる人もありなん自づから 堀兼の井のそこのこころを」山家集 西行法師(1118~1190)
「いまやわれ浅き心をわすれみす いつ堀兼の井筒なるらん」拾玉集 慈円(1155~1225)

鎌倉街道堀兼道はこのまま進むと、武蔵野台地中心部から出て、新所沢駅の西側で鎌倉街道本道と合流するので、東に戻ります。

「JAいるま あぐれっしゅげんき村」は農産物直売所です。裏にお茶の集積所である狭山茶センターもあります。取り立ての新鮮な野菜の他、げんき村カフェテリアでうどんや地元野菜を使った料理が食べられるそうです。駐車場から富士山がよく見えました。

「堀兼・上赤坂公園」は、天然芝の多目的グラウンド(サッカー場)がある公園で、この辺りでは貴重なトイレがあります。

この辺りから、武蔵野の広大な平地林に入ります。この森は江戸時代に開拓が始まった時に、木材や薪などを自給できるようにするため人工的に造られたもので、それまでの武蔵野のこの辺りは草原と灌木帯でした。開拓者によって広大な平地林が造られたため、地下水位が低く水が得にくかった三富新田の水位が上昇したそうです。なお木が無かったのは、平地でも広く行われていた「焼畑農業」のせいともいわれています。

「堀兼・上赤坂の森(緑のトラスト狭山9号地)」は、広い林の中に散策路が設けられた場所です。この辺りの森は産廃処理業者が多いのが欠点ですが、ここは散策路が整備されていています。オオタカも生息しているそうです。

続く「狭山市椚山ふるさとの緑の景観地」も同じような感じの場所です。市の境界線にあたるため、隣には「所沢市駒ヶ原ふるさとの緑の景観地」もあります。「くぬぎ山特別緑地保全地区」は市の境を超えて、この辺りの森全体を保全地区に指定したもので、川越市、所沢市、狭山市、三芳町にまたがり、約152haあります。くぬぎ山の山は、この辺りでは平地にある森のことを古くから「ヤマ」と呼んきたことからつけられました。この用法は他の場所でも幅広く見られます。山が山岳地帯限定になったのは比較的最近のことだそうです。

しかしやはり産廃処理業者と工事の資材置場隣が多いです。散策路が整備されたエリアは「三富今昔村」という有料の自然体験施設になっていて、開村時間10:00~17:00。やまゆり鉄道切符つき 大人(18歳以上)1名につき880円(税込) /800円(税抜)とのことです。レストランや土産物屋や体験学習コーナーなどが整備されているそうですが、入口の両側と前が大型トラックが頻繁に出入りする産廃業者で、正直いってあまり雰囲気はよくありません。

続いて「多福寺」と「多聞院」にも寄って行きます。この武蔵野台地の開拓地で唯一由緒ある寺院です。「多福寺」は、徳川綱吉の新田開発政策で、川越藩主だった「柳沢吉保」によって一寺一社の制に基づき三富新田に造られた臨済宗妙心寺派寺院です。上富村・中富村・下富村の菩提寺でした。広い境内は散策可能な武蔵野の平地林になっています。柳沢吉保直筆の「参禅録」をはじめ、重臣の曽根権太夫が寄進した銅鐘なども残されています。

多福寺の南側にある「木ノ宮地蔵堂」には、坂上田村麻呂が北国遠征の際に武蔵野で道に迷ったところを地蔵菩薩に助けられ、その加護に感謝し、延暦24年(805)創建したという伝説が残されています。本堂の裏にある石の地蔵尊は奥之院と呼ばれ、寛永19年(1642)に地蔵堂が焼失した直後に木野目郷(現川越市)の長者であった杉山長五郎から寄進されたものだそうで、入間東部地区に残る石地蔵の中では最古のものです。三富新田開発が終了し、多福寺が創建された元禄9年(1696)に再建され、多福寺の境内仏堂となりましたが、破損が酷くなったため安永6年(1777)に再建されました。この建物も三芳町の文化財に指定されています。

木ノ宮地蔵堂本堂内にある木造の地蔵菩薩像は、夜な夜なお堂を抜け出してあちこち歩き回るため、問題を起こさないように鉄の鎖で縛られており、「縛られ地蔵」と呼ばれています。縛る=結ぶということかは、縁結び・子授け・安産・子育てのお地蔵様として古くから信仰を集めてきました。また、内陣の格天井には地元の絵師鈴木本英による107枚の植物面が描かれており、三富新田開拓の成功と経済的な豊かさを示すものだといわれています。

もう1つの「多聞院」は、柳沢吉保によって川越藩の祈願所として設けられた「多聞院毘沙門堂(毘沙門社)」の別当寺として造られた真言宗豊山派寺院です。毘沙門堂には武田信玄の守り本尊であったといわれる小さな(約4cm)黄金の毘沙門天像が奉られており、これは吉保の柳沢家が元武田の家臣だったことに由来するといわれています。現在の多聞院毘沙門堂の建物は明和3年(1766)に建てられたものですが、老朽化がはげしくなったため、昭和57年(1982)に大規模な修理が行われ、茅葺き屋根から銅板葺きに葺きかえられました。境内は立体曼荼羅をイメージして植え込まれた23種類300株の牡丹が咲く名所としても有名で「牡丹寺」とも呼ばれているそうです。

多聞院の隣にある「中富神明社」は、神仏分離令で多聞院から分かれた神社です。明治45年に三富地区・富岡地区の富岡七神社と呼ばれる七社を合祀し、三富新田の村社となりました。社殿の隣には「いも神様」とも呼ばれるサツマイモの神様が祀られています。このサツマイモは、江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」が飢饉への備として目黒不動尊の墓地に墓がある「青木昆陽(甘藷先生)」命じたもので、三富新田の物は寛延4年(1751)所沢の南長井村の名主・吉田弥右衛門が千葉の房総(木更津周辺)から取り寄せたて広めたものが元となっています。サツマイモは飢饉の備や自宅用の食料として作られただけでなく、江戸で流行した焼き芋屋の芋としても使われ、貴重な現金収入になったそうです。

多聞院から南にある「東ハト直売所」は、東ハトのお菓子の工場の直売所ですが、コロナで閉鎖され、以降再開されていないようです。

直売所の横から森を抜け、日本の里100選に選ばれた「三富新田」の畑の中を行くと、「いも街道(県道56号線、さいたま ふじみ野 所沢線)」に出ます。川越の名産であるサツマイモは主に三芳町のこの辺りで生産されており、「栗より(九里四里)うまい十三里(江戸と川越の距離)」で知られる「富の川越いも」と呼ばれています。いも街道は両側にサツマイモの生産を担う農家が軒を連ねているため名付けられた道で、各々直売所を持っているため、シーズン(9月~1月)になると、幟旗がいっせいにはためきます。スーパーや八百屋に滅多に出回らない貴重な品種も手に入るそうです。いも街道の農家には、開拓当時からの屋敷地・耕地・平地林の短冊状の地割りが今も残っており、平地林の落ち葉を堆肥化して利用する循環型農法は「武蔵野の落ち葉堆肥農法」として、令和5年(2023)7月に国連食糧農業機関(FAO)により、「世界農業遺産」に認定されました。

「旧島田家住宅」は、交流館として使用するために移築復元された古民家です。江戸時代の文化・文政期(1804~29)に建築されたと考えられる茅葺屋根の住宅で、畑作新田として知られる三富の開拓が、さつまいもの導入により豊かになったことを証明してくれる大型の家屋だということです。近郷農民の子弟を集めて寺子屋を開設していた時期もあることにちなみ、「現代の寺子屋」としてさまざまな郷土学習教室を行っているそうです。

旧島田家住宅の道の向かい側にある「天王様」は「上富八雲神社」です。三富新田周辺には大きな川もないのに天王様を祀る八坂神社や八雲神社などが多く、三芳町にも藤久保、竹間沢、北永井、上冨の4箇所にあるそうです。梅雨明け後の7月27・28日に疫病が流行しないようにとの願いを込めて夏祭が行われます。

旧島田家住宅の100m先の武ちゃん農場入口手前にある「いぼとり地蔵」は、由緒はわかりませんが街道の道標も兼ねていたのでしょうか。

しばらく、いも街道のけやき並木の下を南に進むと「大石燈籠」と「三富開拓地割遺跡の碑」があります。これは先ほど書いた新田開拓の地割跡が埼玉県指定旧跡に認定された際に建てられたものです。近々「世界農業遺産」の碑が、見沼代用水の世界かんがい施設遺産の碑のような形で、隣に追加されるんじゃないかと思います。北武蔵野のこの辺りは、長年どこに帰属するか定まらず領地争いが繰り返されてきた土地で、元禄7年(1694)7月、幕府評定所によりようやく川越藩の領地であることが認められ、そこから開発が始まりました。当時の川越藩主柳沢吉保は農民を集めて新田開発を推進し、2年後の検地では上富91軒、中富40軒、下富49軒、合計180軒の新しい村々が出来上がり、孔子の教えに基づき豊かな村になるように三富新田と名付けられたということです。

「上富御獄神社」は、東京都青梅市の御岳山にある武蔵御嶽神社を勧請した神社です。天保年間にこの地に代参講の誕生し、神殿は安政の頃に創立されたものだそうです。祭神は御岳山なので櫛真智神(武蔵御獄神社で今も行われている鹿の骨を使った太占の神様)を筆頭に、大己貴命、少彦名命、大口真神(お犬様)となっています。

「チャーシュー力V3 三芳町店」は、11時開店のため食べることは出来なかったのですが、伝説のプロレスラー長州力のファンのラーメン店で、「サソリ固めラーメン」が名物だそうです。背脂とニンニンがたっぷりのラーメンで、醤油と塩と味噌味があるようです。「掟破りさそり」とか「ブッチャー」もあります。

いも街道から出た先にある「南永井八幡神社」は、延宝年間(1673~81)に当地を開発した上州新田郡下田中村の(吉田)市郎左衛門が屋敷神として創祀した社がベースとなっており、村が出来た際に、新田郡下田中村八幡の分霊を勧請して南永井村の鎮守としたという神社です。吉田家は、新田の系統かと思って調べてみたら、武田の家臣が関東に定住したもののようです。

「南永井(田代)稲荷神社」は、小さな社だけの神社で由緒は不明ですが、ノカンゾウが咲いていました。

「日比田薬師堂」は、正保3年(1646)の創建と伝えられる目の神様です。昭和15年に東所沢駅南東にある東福寺の所属になっています。

「日比田氷川神社」は、日比田を開発した人々が天正8年(1580)に村の鎮守として熊野権現を合せ祀って創建したこの辺りでは珍しい氷川神社です。明治5年村社に列格し、明治40年字向山の稲荷神社を合祀しています。

最近はアニメの聖地となっている角川武蔵野ミュージアムがあるところざわサクラタウンに隣接する「所沢観光物産館よっとこ」は、所沢市の「よいもの(Y)」「おいしいもの(O)」「たのしいもの(T)」を紹介する複合施設で、地粉カフェという食堂で地元産の地粉を使ったうどんが食べられます。お土産には猫の手の形をした肉玉フィナンシュ&クッキーが人気だそうです。

久しぶりに「スーパー銭湯 湯の森 所沢」に着きました。今日は近場で帰りに時間がかからないので、ここで汗を流していきます。パチンコ屋に隣接する日帰り温泉施設で、泉質は透明で黄緑がかった弱アルカリ性単純温泉です。食堂は、カレー、ラーメン、チャーハンといったシンプルなメニューが多いです。

時間があるので、東所沢駅から帰らずに、所沢駅方面にある「山田うどん食堂 本店(所沢市上安松1032)」に行ってみることにしました。入口に大きなかかしの人形があるだけで、本店と言っても、他のの山田うどん食堂と建物もメニューも変わりませんが、一度来てみたかった場所なので、ここで昼食にします。山田うどんの母体となる山田食品産業株式会社は、小麦の産地であった所沢に1935年に手打ちうどん専門店(所沢市日吉町)として創業しました。戦後に入り、1953年に山田製麺所が設立。1959年に所沢市上安松に製粉工場が立ち上げられています。「山田うどん」の1号店は高度成長真っ只中の1965年にオープンされ、早くも次の年には現在の主流となる駐車場つきのローロサイド店ができています。また同年に学校給食への麺類の提供も始めています。1号店の場所は西所沢駅に近い所沢市金山町とのことなので、現在の本店の場所とは違うようで、本店がある上安松は製粉所があった場所のようです。本店の上は山田食品産業(株)の本社ビルとなっています。なお製粉工場は今はなく、現在は入間市宮寺に移って「山田食品産業 入間工場」となっています。ここではたまに直売会があって山田うどんの製品が安く買えるようです。

土日限定の「山田セット(①たぬきうどんまたはそば+②かき揚げ丼+③ミニパンチ)」990円を注文しました。山田うどん食堂になってから、人気のパンチセットがなくなって、その後継のようなメニューですが、たぬきに揚げ玉が入っているので、ご飯はかき揚げ丼ではなくて、白米でいい気がしました。

山田うどん食堂本店からさらに歩いて「所沢駅」東口に着きました。たまには西武新宿線で帰ります。

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