• このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

鎌倉街道小手指道

東村山停車場碑、正福寺、下宅部遺跡、多摩湖、多摩湖氷川神社、トトロの森、柳瀬川、山口城跡、中氷川神社(山口)、北野天神社、小手指ヶ原古戦場跡、白旗塚、誓詞橋、不動院、下藤沢熊野神社、新田橋、馬坂、ジョンソンタウン、豊岡愛宕神社、長泉寺、高倉氷川神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 参考になった

行程・コース

天候

曇り時々晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿/西武新宿→東村山

復路:入間市→西武池袋線→池袋→山手線→目黒

この登山記録の行程

東村山駅/東村山停車場碑6:28→正福寺6:55→照光寺7:07→下宅部遺跡(下宅部遺跡はっけんのもり)7:09→西武園駅7:14→宅部山遺跡7:22→多摩湖駅7:28→多摩湖(村山貯水池)7:34→多摩湖氷川神社7:40→斎藤俳小星句碑7:46→西武ゆうえんち駅→トトロの森6/25/23/35/36号地7:50→柳瀬川8:11→山口城(児泉城)跡8:13→中氷川神社(山口)8:22→椿峰西公園8:30→北野天神社(宗良親王在陣跡)8:54→東川9:11→小手指ヶ原古戦場跡9:18→白旗塚/白旗塚遺跡9:20→誓詞橋9:28→狭山ヶ丘愛宕神社9:45→狭山ヶ丘駅9:47→藤沢中央公園10:01→藤之宮10:08→不動院10:11→下藤沢熊野神社10:15→飛龍神社跡10:21→新田橋10:25→馬坂10:28→富士見公園10:37→ジョンソンタウン10:47→豊岡愛宕神社11:01→長泉寺11:10→高倉氷川神社11:26→高倉寺11:30→狭山市笹井堰11:54→アクアリゾートいるまの湯12:01~13:35→入間市駅14:10

合計6時間8分(スーパー銭湯除く)

コース

総距離
約21.6km
累積標高差
上り約253m
下り約243m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

7月6日(土)は、鎌倉街道上道の「小手指道」を、東村山駅から入間市駅まで辿って来ました!

スタートは「東村山駅」西口です。東口の志村けんの銅像にの代わりに「東村山停車場碑」というものがあります。これは、西武国分寺線の前身である「川越鉄道」には当初、東村山駅を造る計画がなかったのですが、柳瀬川の鉄橋工事が難航したため、明治27年に東村山駅のある場所に「久米川仮停車場」をつくって東村山~国分寺間を先に開業させたのを逆手にとり、廃止される予定だった仮設駅を住民運動の力で正式な駅として認めさせた記念碑です。その後、東村山駅は多摩湖建設のトロッコ運送の拠点となり、地域の発展に貢献したそうです。

続いて先週も行った「金剛山 正福寺」に寄って行きます。この寺の門前で鎌倉街道上道は「入間川道(本道)」と「小手指道」の2つに分かれていました。別に八坂駅の「九道の辻」で分かれていたという説もあります。正福寺は、北条時頼(又は北条時宗)が開基となり、心月禅師(文永年中(1264~74)寂)を請じて創建したと伝えられる臨済宗建長寺派寺院です。北条時宗が鷹狩りの際にこの地で病気になり、夢枕に黄衣をまとった地蔵菩薩が現れ、丸薬をくれたのを飲んだら、眠りから覚めた時には病気が治っていたため、正福寺を開創したと伝えられています。都内唯一の国宝建造物に指定されている「千体地蔵堂」は、室町時代の1407年に建造されたもので、東村山市指定文化財になっている木像の地蔵菩薩立像の他、約900体もの地蔵菩薩像が収められています。

正福寺から狭山丘陵沿いまで行きます。「寶輪山 照光寺」は平成11年5月5日、池崎徹山住職が開山した曹洞宗系の単立寺院だそうで、平成20年に宗教法人として設立登記されています。入口にアンパンマンの石像があります。

「下宅部遺跡」は「下宅部遺跡はっけんのもり」という公園になっている遺跡です。都営住宅建替え工事の際に発見されたそうです。縄文時代後・晩期、古墳時代、奈良・平安時代、中世にかけての「低湿地遺跡」で、昔の川の流れ跡から、通常の遺跡では残りづらい木材を組み合わせた施設や、多量の縄文土器や石器、木製品、シカ・イノシシの骨やトチノキ・クルミなどの植物が大量に出土しています。東京都の「史跡」として文化財指定され、公園は「日本の歴史公園100選」にも選ばれています。遺跡のある「宅部」は、東村山市で最も古い地名で、大化の改新(645)の「公地公民制度」で土地・人民は公のものと定められましたが、豪族の中には国に土地・人民を納めないものもあり、その土地・人民を「家部(宅部)」といったそうです。

下宅部遺跡とその北西側250mにある「宅部山遺跡」からは奈良・平安時代の瓦塔(がとう)と呼ばれる瓦質の五重塔が出土しています。下宅部遺跡から見つかった屋根が、宅部山遺跡から見つかった本体と見事に接合したそうです。

遺跡の北側にある「西武園駅」は、東村山駅と西武園駅を結ぶ西武鉄道西武園線の終点の駅で、かつては競輪開催時のみに営業する臨時駅だったそうです。

西武園駅の西側に「多摩湖駅」もあります。2021年まで「西武遊園地駅」だった駅が改名したもので、古い地図にはまだ昔の名前が残っています。国分寺駅とつながる西武多摩湖線と西武球場前とつながる山口線の終点の駅ですが、2つは繋がっていないので乗り換える必要があります。

多摩湖駅の横の斜面を上ると、眼前に「多摩湖(村山貯水池)」が広がります。昭和2年(1927)に狭山丘陵に造られた人造湖で、小作取水堰と羽村取水堰から地下の送水管を通って送られてきた多摩川の水を貯留し、東村山浄水場と境浄水場へ導水しています。上流側の村山上貯水池と村山下貯水池に分かれており、隣の狭山湖(山口貯水池)とは連絡管でつながっています。

多摩湖がある谷にはかつて小さな集落が幾つもあり、161戸が住んでいたそうです。そこで信仰されていた神社を宅部の氷川神社に合祀したものが「多摩湖氷川神社」です。宅部の氷川神社は所沢市山口の中氷川神社から分祀されたものだそうで、明治6年に村社に列格しています。

氷川神社の上には、斎藤俳小星句碑「郭公や狭山が丘も深からず」があります。斎藤俳小星は明治16年(1915)埼玉県所沢生まれの俳人で(昭和39年(1964)没)、高浜虚子に師事し、大正9年(1902)に『ホトトギス』同人となり、昭和37年(1962)には埼玉県俳句連盟顧問となっています。農事の句に優れ、「土の俳人」と称されていたそうです。

多摩湖を出て狭山湖方面に続く丘陵上の道を行きます。左の西武ゆうえんち中に見える「西武ゆうえんち駅」も2021年までは「遊園地西駅」でした。

交通量の多い車道をそのまま真っ直ぐ進まず、横の細道に入ると、「トトロの森」が6、25、23、35、36号地と続きます。この辺りは用地買収した森がまとまっているため、合わせるとトトロの森の最大の森になるそうです。

狭山湖(山口貯水池)を源流とする「柳瀬川」を渡ると、すぐ右手にスーパーのサンキがあり、その敷地内にある土塁が「山口城(児泉城)跡」です。近所に掘ノ内という地名も残っています。城主の山口氏は武蔵七党の「村山党」の祖・村山頼家(平頼任)の子の1人、村山小七郎家継が山口の地に館を構え山口氏(山口七郎)を名乗るようになったことに始まる村山党の中で最も繁栄した一族です。山口氏の諸流には、難波田氏、仙波氏、久米氏、須黒(勝呂)氏などがいます。山口氏はこの城を居館にし、狭山湖の北側の丘に詰め城である「根小屋城」を築いていました。南朝側の武蔵平一揆に加わったため一時衰退しますが、戦国時代に入ると復活し、後北条氏の「小田原衆所領役帳」に山口平六が山口の内、大鐘、藤澤、北野の地を40貫文で知行していたと記されています。後北条氏の滅亡後、子孫の山口大善は徳川氏に仕えます。

「中氷川神社(山口)」は、大宮の氷川神社と奥多摩の氷川神社の真ん中に位置する延喜式式内社の中氷川社に比定される神社で、鎌倉街道上道小手指道はここと山口城の間を通っていたのだと推定されます。ただ中氷川神社の候補社はここ以外に三ヶ島の中氷川神社もあります。天正19年(1591)、徳川家康より社領四石三斗余の御朱印状を拝領し、維新後の明治5年に村社に列格しますが、近隣の北野天神社が既に郷社に列せられたため、不服を申し立て、これが認められて、大正9年に郷社へ、昭和12年には県社に列せられています。境内に立派な金比羅神社があります。由緒は不明ですが、立派な社殿は旧本殿を移築したものだそうです。

「椿峰西公園」がある中氷川神社の裏の小高い場所が「椿峰」で、鎌倉幕府を倒す戦いの途中にこの地を通った新田義貞が、箸として使った椿の枝を地面に刺したものが根付いたといわれる梅の木がかつてはあったそうです。また「椿峰塚群」という古墳地帯で昔は塚が9基あったそうです。

「北野天神社」に着きました。この神社は正式名称を「物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社」といい、式内社(比定2社、論社1社)で、旧社格は県社になっています。式内社の内訳は、「物部天神社」が式内小社「物部天神社」に比定され、式内小社「出雲伊波比神社」の論社(他の論社は入間市宮寺の出雲祝神社、毛呂山町の出雲伊波比神社、川越氷川神社)になっており、國渭地祇神社が式内小社「国渭地祇社」に比定されています(他の論社は坂戸市の国渭地祗神社)。物部天神社は物部氏(无邪志国造の一族)の氏神であったともいわれています。「天満天神社」は菅原道真の5世の子孫・菅原修成が武蔵守として京都北野神社より勧請したもので、源義家、源頼朝、足利尊氏、前田利家により社殿が造営されたそうです。境内にある「航空神社」は 徳川好敏氏の宿願により昭和12年9月25日、所沢陸軍飛行場に創建されたことを記念して建てられたもので、事故などで亡くなった靖国神社に合祀されない航空殉職者たちの霊を祀る神社だそうです。「小手指神社」は地域の神社をまとめたものではなく、小手指地域の戦没者(英霊)を祀る神社だとのことです。他にはヤマトタケルが植えたとされる「尊桜(みことざくら)」や、前田利家献栽の大納言梅などがあります。大納言梅の由来は当時の利家の官職からきています。

北野天神社は「宗良親王在陣跡」ともいわれています。「宗良親王」は、後醍醐天皇の皇子で南朝の征夷大将軍(征東将軍)として活躍した皇族で、本拠地を信濃国伊那郡大河原(長野県大鹿村)に置き、各地に遠征を繰り返していました。歌人としても有名で、准勅撰和歌集『新葉和歌集』の撰者となったり、私歌集『李花集』を残しており、北野天神社の境内には「君のため世のためなにかおしからん すててかひあるいのちなりせは」と書かれた宗良親王の歌碑があります。

北野天神社から北西に進むと「小手指ヶ原古戦場跡」に着きます。上州を発った新田義貞の軍勢が最初に鎌倉幕府軍とぶつかった場所です。最初150騎ほどであった新田軍は行く先々で兵が増え、万を超える大軍となっていましたが、幕府軍はそれを超える3万の兵力で義貞が入間川を渡りきる前に迎撃すべく襲いかかってきました。最初は数に勝る幕府軍が優勢でしたが、河越氏ら武蔵の御家人らがそくぞくと援軍に加わったことで、新田軍が次第に優勢となり、幕府軍は久米川まで退くこととなり、第2戦の久米川の戦いへとなだれ込みます。

小手指ヶ原の戦いは新田義貞以外でも戦われています。建武2年(1335)に鎌倉幕府の残党の北条時行と足利尊氏の弟の足利直義の戦い「中先代の乱」で小手指原は戦場のひとつとなっています。さらに、足利尊氏が政治の実権を握り、新田義貞が戦死した後の「観応の擾乱」で、正平7年/文和元年(1352)閏2月28日に、義貞の息子の義興・義宗が後醍醐天皇の皇子・宗良親王を奉じて幕府に挑んだ「武蔵野合戦」で、義宗と足利尊氏が小手指ヶ原で戦っています。この時に北野天神社に陣を構えていた宗良親王が味方を鼓舞するために歌ったのが先ほどの和歌です。

小手指ヶ原古戦場の碑の奧には「白旗塚」があります。名前の通り義貞が源氏の白旗を立てた場所だそうですが、元は前方後円墳で、西側に方の跡のようなものが残っています。江戸時代は富士塚としても使われていたようですが、塚上にはあった浅間神社は今は北野天神社にあります。また塚の南側からは「白旗塚遺跡」も発見されていて、旧石器時代の石器4、縄文時代の住居22、土坑71などが見つかっているそうです。

所沢市埋蔵文化センターを横目で見ながらさらに進むと「誓詞橋」交差点に出ます。新田義貞が倒幕を誓った橋があったそうですが、国道463号バイパスができたため、橋はなくなり交差点とバス停に名前が残るのみです。

そのままひたすら鎌倉街道上道小手指道らしき道を北西に一直線に進みます。狭山ヶ丘駅手前にある「狭山ヶ丘愛宕神社」は、川越にあった愛宕神社を所沢に移築しようとした際に、牛車がここで動かなくなり、仕方がないのでこの地に祀ったという伝承を持つ神社です。狭山ヶ丘地区の鎮守社となっています。

「狭山ヶ丘駅」に着きました。大正4年(1915)に西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が開通したとき「元狭山駅」として誕生た駅で、 一度地元の要望を入れて「三ヶ島村駅」と改称されますが、昭和8年(1933)に「狭山ヶ丘駅」という今の名前になったそうです。

「藤沢中央公園」はだだっ広い殺風景な広場のような公園なのですが、地下に調整池がある地域の防災公園となっているようです。

「藤之宮」はふじのみや公園にある小さな神社です。地域の神社を合祀したのではなく、日清・日露・大東亜の英霊の慰霊碑を1つにまとめたもののようです。昔は富士山がよく見えたのか富士之宮とも書くようです。

「源光山 明王寺 不動院」は、青梅市成木の安楽寺を本寺とする真言宗豊山派寺院です。江戸幕府より寺領18石の御朱印状を拝領しており、文明2年(1470)に60余名が結衆をつくり、死後極楽往生できるように「逆修(ぎゃくしゅ)=生前供養)」を行った「十三仏結衆板碑」が入間市の指定文化財になっています。十三仏は、初七日から三十三回忌まで十三回の年忌法要を勤める時の本尊とする仏・菩薩とのことです。

「下藤沢熊野神社」は、延喜式内社の「出雲伊波比神社」の論社といわれる神社です。北野天神社のところで名前が出で来なかったので、有名な論社ではないのでしょう。江戸期には寄木明神社と称し、天正19年徳川家康より社領10石の御朱印状を拝領しています。明治2年に熊野神社と改め、明治5年村社に列格してました。寄木明神社と矛盾するような気もするのですが、元は不老川対岸の明ノ沢と呼ばれる場所にあり、「飛竜神社」と称していたそうです。ここは、日本武尊が武蔵野で水が得られず苦しんでいた時に神の導きで発見できた湧水があり、紀伊国熊野三社権現の飛竜権現になぞらえて、飛竜神社という名をつけたのだといわれています。飛竜神社は新田義貞が鎌倉へ向かう途中、下藤沢明の沢で烏が旗の上にとまり、義貞は、霊験あらたかな紀州熊野宮の飛竜の神の援護だと喜んで、鎌倉で勝利した帰りに再びここに立ち寄って飛竜神社を建立したという伝説も残っています。樹齢約600年の大杉が市指定天然記念物になっています。

対岸の「飛龍神社跡」は駐車場上の河岸段丘の林の中に石碑が建てられています。上はルミナス武蔵藤沢というマンションになっています。

その少し東側にある「新田橋」にも新田義貞の名前が残っています。橋の上にクランク状態に曲がった「馬坂」という坂道があるのですが、ここは鎌倉攻めの武者が馬に乗って通ったため,馬坂と呼ばれるようになったといわれていて、かつては坂の下に馬が涙を流して水を飲でいたためなづけられた「馬の涙」と呼ばれる湧水の池があったそうです。

「富士見公園」というわりと広い公園を東にぬけると、「ジョンソンタウン」に着きます。いわゆる米軍ハウスなのですが、ここでは老朽化した米軍ハウス「磯野住宅」を新たに平成ハウスとして建て直し、景観を維持していています。一般の住宅より何らかの店をやっている家が多く、ちょっとした観光地になっています。

入間川(霞川)の河岸段丘上にある「豊岡愛宕神社」は、多摩川の矢口の渡しでだまし討ちされて殺された「新田義興」の首を、足利基氏が陣を張っていた入間川御陣に運び検分した後、社殿の傍らに塚を造って埋葬して松を植えた「首級の松」がある神社です。元は神明社でした。ところがその後、この地で災害が続き、義興の祟りだといわれるようになり、基氏はそれを鎮めるために義興の像と所持していた雷陣を描いた軍扇を神体とする新田大明神を当社に合祀します。しかしこれでも災害は収まらず、加茂別雷神社に請い、雷斧一口と雷丸一個を神体として合祀し、ようやく災いが収まったそうです。愛宕神社の名前は江戸時代に改称されたそうで、明治5年に村社に列格しています。首級の松の松は、昭和37年に枯死し、現在は2代目となっています。またこの塚の隣には十三塚といわれる新田義興と共に討ち死にした十三人の従者の首を埋めた塚もあります。また勝海舟が揮毫した扁額もあります。

愛宕神社の下の「光福山 長泉寺」は、慶長年間(1596~1615)頃に創建された曹洞宗寺院です。武蔵野七福神の大黒天で、60日毎の甲子の日に縁日が行われ、大いに盛り上がるそうです。

「霞川」を渡って進みます。霞川は青梅の霞丘陵の天寧寺裏にある霞池を水源とする川で、この先の入間市駅の北側で入間川に合流します。小手指道は入間市駅から霞川の河岸段丘上を進み、鎌倉街道上道の本堂である入間川道と合流した後、霞川が合流した入間川を八丁の渡しで共に渡ることになっているのですが、入間市駅の北にある豊水橋のところで「日光脇往還」が入間川を渡っているので、ここで入間川を渡っていたことも考えられます。

「高倉氷川神社」は、大宮氷川神社の遥拝所として創建された加治丘陵の東端の高台にある神社です。境内にある清瀧神社は、かつてこの辺りに霞川に注ぐ滝があったのでしょうか?

氷川神社の北にある「光昌山 高倉寺」も、盆天山と呼ばれる加治丘陵の東端の高台にある曹洞宗寺院で、明治16年に天皇陛下が天覧された「明治天皇御立野所」の碑が墓地の北端にあります。ここからの景観は『入間市景観50選』にも選ばれています。寺の創建は観音堂として飯能市にある第三世・材室天良禅師(天正18年(1590)寂)が開山し、現在も同寺の末寺となっています。第五世白翁亮清が延享元年(1744)に飯能市白子の長念寺より譲り受けた観音堂は、室町時代初期に建造されたもので、国重要文化財に指定されており、中には東京の芝増上寺から譲り受けた震丹伝来の十一面観音菩薩が納められています。

そのまま西武線を越えて入間川まで進みます。「笹井堰」は、通称「笹井ダム」と呼ばれる農業用の堰ですが、上流や下流では、アケボノゾウの骨格化石やメタセコイアの埋没林が発見されるなど、地質学の宝庫としても知られています。釣り場としても地元の人に親しまれており、かつてはボートが浮かび、馬車鉄道もありました。現在の堰は台風で決壊するなどして、昭和27年に復旧されたものです。

今日は久しぶりに「アクアリゾートいるまの湯」で汗を流して行きます。入浴料は、2024年4月から値上がりしても500円という都内の銭湯より安いスーパー銭湯(沸かし湯)です。でも露天風呂や炭酸水素泉に加えてサウナが3つもあって必要十分です。レストランもあります。

「入間市駅」に到着しました。駅の反対側のバスターミナルにある「淳之助製麺食堂」は魚介系のつけ麺の店ですが、「イルマユウジロウ」という二郎系のラーメンがあったのでそれを注文してみました。二郎でも数が少ない白濁した乳化系のラーメンで、味はかなり甘く、豚骨の甘さではなく魚介系のスープが混じっているような気がしました。

続きを読む

フォトギャラリー:104枚

すべての写真を見る

装備・携行品

みんなのコメント

ログインして登山記録にコメントや質問を残しましょう

登山計画を立てる