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加治丘陵の南側(霞川/豊岡街道に沿って)

高福寺、金子神社、西三ツ木高札場、西光院、上谷ケ貫八幡神社、下谷ヶ貫神明神社、桜山展望台、花ノ木山祇神社、豊泉寺、豊隅氏屋敷跡、根岸稲荷神社、中神三輪神社、狭山茶どころ、入間茶業公園、日本一の道標、龍圓寺、市川陣屋跡、東光寺、五味氏屋敷跡、小谷田氷川神社( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

曇り時々晴れ

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→新宿→中央線→立川→青梅線→拝島→八高線→金子

復路:入間市→西武池袋線各駅停車→小手指→〃特別快速横浜中華街行→中目黒→東急東横線→学芸大学

この登山記録の行程

金子駅6:20→霞川6:27→豊岡街道6:31→高福寺6:34→高養寺6:43→寺山見晴台6:49→道間違い→金子神社7:22→寺竹白鬚神社7:34→西三ツ木の高札場7:39→龍池山観音寺跡7:43→西光院7:51→上谷ケ貫八幡神社7:54→下谷ヶ貫神明神社8:04→光円寺8:08→桜山展望台入口8:14→下谷ヶ貫愛宕神社8:18→桜山展望台8:20→四季の森休憩園地8:32→花ノ木山祇神社8:38→豊泉寺(豊隅(泉)氏屋敷跡)8:53→根岸子育地蔵尊9:03→根岸稲荷神社9:09→中神三輪神社9:20→茶葉テラス茶の輪→狭山茶どころ石碑/はらや子育地蔵尊/中神の百万遍供養塔9:32→入間茶業公園9:43→日本一の道標9:51→龍圓寺(市川氏陣屋跡)10:03→入間台遺跡公園(窯跡公園)10:16→東光寺(五味氏屋敷跡)10:24→小谷田神明社10:30→小谷田氷川神社10:34→中野原稲荷神社10:46→圏央道/国道299号バイパス10:54→アクアリゾート入間の湯11:24~13:20→蔵出し味噌 麺場 壱歩 入間店13:40~14:04→入間市駅14:10

合計5時間40分(風呂とラーメン除く)

コース

総距離
約17.6km
累積標高差
上り約346m
下り約415m

高低図

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登山記録

行動記録・感想・メモ

7月13日(土)は、先週の鎌倉街道小手指道の西側の加治丘陵の南側エリアが空白になっていて、まだ行ったことのない居館跡が残っていたので、霞川に沿って金子駅から入間市駅まで縦走してきました。

スタートは八高線の「金子駅」です。駅名は武蔵七党の1つ村山党の金子十郎家忠の居館が近所にあったことに由来します。

金子駅を出てすぐ「霞川」を渡ります。霞川は青梅の勝沼城跡の北側の谷にある天寧寺の裏の「霞池」を水源としており、埼玉県に入ってからはずっと入間市内を流れ、入間市駅北側の狭山市との境で入間川に合流します。上流部は桂川や葛川とも呼ばれます。霞川の広い谷は古多摩川の流路の1つといわれています。

霞川の北側すぐにあるのが「豊岡街道」、別名「根通り」という青梅と川越を結ぶ街道です。道の名前は入間市駅周辺の地名「豊岡」からとられていて、豊岡から先は鎌倉街道小手指道や堀兼道と合流するので、実質的には青梅と入間市を結ぶ道といってよいと思います。街道周辺は古代は桂荘11ヵ村と呼ばれる荘園でした。豊岡街道は江戸時代に入ると、川越まで船で来られるため、武蔵御嶽山への巡礼道をして賑わったそうです。

最初の「金峯山 泉蔵院 高福寺」は、塩船観音塩船寺の末寺であった真言宗豊山派寺院で、創建に関してはよくわかっていませんが、鎌倉幕府開府前後に不動明王を安置して創始されたとも、秀尊(貞元2年(977)寂?)が堂宇を整備して天文年間(1532~55)に一寺となしたともいわれています。江戸時代には徳川家光より寺領2石の御朱印状を拝領したそうです。

次の「龍岳山 高養寺」は、金子筑後守家定(法名高養寺殿月峯常圓居士、天正15年(1587)卒)が開基となり、天室徳源(永禄元年(1560)寂)が開山となって創建された曹洞宗寺院です。金子家忠館跡で現在廃寺の木蓮寺瑞泉院の末だったそうです。金子家定は戦国時代の人物で八王子城主北条氏照の配下でした。慶安年間(1648~51)に江戸幕府より寺領11石の御朱印状をしています。

高養寺の横から加治丘陵に上ります。高養寺の裏にあるのが「寺山見晴台」です。特に何も無いですが、丹沢や富士山が見えそうなのですが、雲がかかっていて山まで見えません。

寺山見晴台の先で標識を見間違って、加治丘陵の北の八高線の踏切の近くまで大回りしてしまいました。まあたいしたアップダウンもなく、疲れもしなかったのでよいけれど…。

それで30分以上かかってようやく「金子神社」のある「天王山」に到着しました。鎌倉幕府第2代将軍源頼家に仕えていた市村親光が建暦3年(1213)の和田合戦で北条氏に敗れ、信州へ落ちる途中当地に隠れ、三木と改名して土着し、その子孫が創建したといわれる神社です。江戸期には牛頭天王社や入子神社と称していましたが、明治初年八坂神社に改称し、明治9年にさらに金子神社と名を改めたそうです。覆屋内に、明治中期に市村家の個人持ちの社であった妙見社を移した三峰神社と、終戦後の昭和23年に氏子一六柱の戦死者の御霊を祀った三ツ木神社が合祀されているそうです。

金子神社から南に下るとまず「元亀三年(1572)九月吉日 家安、英家、秀種、家親、金子越中守家定」と書かれた懸仏(入間市有形文化財)がある「金比羅神社」と隣に「権現神社」があって、その下に「敷島神社」があり、さらにその下にメインの「寺竹白鬚神社」があります。白髭神社は高麗人が当高麗郡入植した霊亀2年(716)に創祀したという伝承を持つ神社ですが、他に、平行長が当地に下向して金子氏と改姓した応和2年(962)に創始されたとか、金子十郎家忠が城の鬼門にあたる当地に仁安3年(1168)に社殿を造営したとかいう伝承も有しています。その後、金子越中守家定が元亀3年(1572)社殿を再建して、寺竹・三ツ木・峰の総鎮守になったそうです。慶安2年(1649)に江戸幕府より社領10石の御朱印状を拝領し、明治5年には村社に列格しています。

白鬚神社から下山すると、「西三ツ木の高札場」とその横に「倉稲魂稲荷神社」があります。山際の集落の一角なのですが、かつては江戸時代に名主をつとめた三木氏の屋敷があり、この辺りが村の中心だったそうです。「倉稲魂稲荷神社」は、伏見稲荷大社を勧講した神社で、元は三ツ木家の屋敷神ではないかといわれています。

高札場から下ると西三ツ木公会堂の横にお堂(地蔵堂?)があり、かってこの場所に「龍池山観音寺」という寺があったということが書いてある解説板があります。観音寺は塩船観音塩船寺の末寺の新義真言宗(恐らく豊山派)で、明治維新に伴い廃寺となり、寺地は西三ツ木公会堂となっています。場所的に白髭神社や金子神社の別当を務めていたのだと思われます。百万遍念仏数珠一式(観音寺の檀家の人々によって続けられた百万遍念仏供養に使われた数珠を中心とした用具一式)が入間市の指定文化財になっています。

「八幡山 西光院 薬師寺」は、賢覺(元和5年(1619)寂)が開山した成木村安楽寺の末真言宗系単立寺院です。現在は無住で半分公園になっています。

江戸時代は西光院が別当を務めていた「上谷ケ貫八幡神社」は、甲斐の武田一族である「増岡重義(嘉慶2年(1388)没)が、宇佐八幡宮の分霊を勧請して文和3年(1354)に創建した神社で、慶長年間に「中山雅楽輔信也」が社殿寄進、延宝2年に領主大久保甚右衛門が鳥居を奉献するなど、歴代の領主に崇敬されてきたそうです。

霞川を渡った場所にある「下谷ヶ貫神明神社」は、谷ヶ貫村が上下に分村した寛文5年(1665)以降に創建されたといわれていて、光円寺が別当を務めていました。雨宝童子の隂刻がされ「奉掛御宝前武州入間郡下谷ヶ貫村願主敬白 享保二十年乙卯九月吉祥日」と書かれた銅製の鏡が御神体として祀られています。また延享2年に奉納された天照大神と記された長さ25cmの木剣も所有します。

「愛宕山 地蔵院 光円寺」も無住の真言宗系単立寺院で、ここも前がゲートボール場になっています。賢性(正徳2年(1712)寂)が開山したそうです。西光院と同じ成木村の安楽寺の末でした。この辺りに青梅方面の寺院の末寺が多いのは、青梅の農民による開拓地だったためと思われます。

再び加治丘陵に登って桜山展望台を目指します。山頂手前ある「下谷ヶ貫愛宕神社」の由緒は不明ですが、祭神として大物主櫛甕玉命、宇賀彦命、宇賀姫命、軻遇突智命が祀られていることから、幾つかの神社が合祀された神社のようです。

本日の最高地点「桜山展望台」189mに到着しました。展望台は、入間市政施行20周年記念事業の一環として昭和62年に建設されたもので丹沢~奥多摩~奥武蔵の山が一望できます。反対側には空気が澄んでいれば東京スカイツリーや筑波山も見えるそうです。

「四季の森休憩園地」という「自然探勝路」道標とベンチがある場所まで行き、手前の道を南に下ります。

下り着いた場所にある「花ノ木山祇神社」は、当地の村人に山仕事をするものが多かったため、山の神を祀ったといわれる山神様です。かつては、当山派の修験が神事を行っていましたが、明治の神仏分離令により当山派修験大乗院鍰栄は復飾して、神山柳栄と名乗り社務を務めることとなったそうです。

「松龍山 豊泉寺」は、天文元年(1532)に小田原北条氏の家臣「豊隅(泉)左近将監」(天正3年(1575)卒)が父母や将兵の菩提を弔うために開基となり、木蓮寺瑞泉院四世本室徳源禅師(文禄元年(1593)寂)が開として創建された曹洞宗寺院です。寛保、延享の頃に火災に合い古い記録は残っていませんが、「豊隅(泉)氏屋敷跡」ではないかといわれています。豊隅左近将監は上州出身で、長男庄太夫、次男治右衛門、そして長女、次女、更に内膳の市左衛門の5人の子供がいたそうです。北条氏滅亡後は北条氏とつながりが深かった伊勢の大名を頼り、そちらに移り住んだそうです。豊隅左近将監の子孫から伊勢六万石大名の石川大名へ宛てた古文書が残っているとのことです。豊泉寺の境内には「狭山茶場碑」という昭和46年に建てられた狭山の茶の由来などが記された石碑があり、また庭園が入間市の文化財に指定されています。

「根岸子育地蔵尊」は由緒不明ですが、豊泉寺と根岸稲荷神社のちょうど中間にあるので、もしかしたら屋敷はこの辺りにあったのかもしれません。

「根岸稲荷神社」は、豊泉左近将監が天文元年(1532)に村の乾(北西)に豊泉寺を建立、巽(南東)に当社を祀ったといわれる、天然の土塁のような小高い尾根の先端にある神社です。見晴らしが良いので豊隅氏屋敷の物見台があったのではないでしょうか。その後、小谷田村附新田(根岸新田)の鎮守社として祀られ、明治5年村社に列格し、明治12年に愛宕社・山王社を合祀しています。

また霞川を渡ります。「中神三輪神社」は、対岸の河岸段丘上にある神社で、かつてこの辺りに宇賀彦と宇賀姫という五穀を守護する国津神の翁と媼が住んでいて、いつも琵琶を奏でていたところ、通りかかった藤原秀郷がこの音色を聞き、承平6年(936)9月にに社を祀り、比和(琵琶)大明神と名付けたという伝承を持っています。建久年中には金子十郎家忠が武運長久を祈願したといわれています。比和が三輪になったのは、万治3年(1660)に奈良県の大神神社(三輪明神)を勧請して以降のことで、江戸時代の別当は豊泉寺でした。万延元年(1860)に拝殿を改築する際に根岸の画家小沢翠岳により描かれた幅約6.1m、奥行き約3mの雲竜の墨絵の天井画が入間市の指定文化財になっています。境内に「三輪神社本殿改築記念碑 従三位勲一等男爵渋沢栄一書」と書かれた大正1年9月建立石碑があったらしいのですが、これは見落としてしまいました。

「茶葉テラス茶の輪」は、広大な茶畑の真ん中に見晴台があるだけの場所で、予約を入れれば3000円前後の料金でここで貸切の茶会を開くことができるそうです。でも暑すぎて誰もいませんでした。突然雨が降って来るということもあるだろうし、屋根ぐらいあってもいい気がします。

そのまま茶畑の中を南に進むと、「狭山茶どころ通り」に出ます。出たところの交差点「原谷の辻」にあるのが農林大臣安倍晋太郎書「狭山茶どころ」の石碑と「はらや子育地蔵尊」と「中神の百万遍供養塔」です。安倍 晋太郎は安倍晋三元総理のお父さんです。大臣を歴任しますが、周囲に有力な政治家が多すぎて総理にはなっていません。「はらや子育地蔵尊は今より東側にあった物を道路工事で移動してきたものだそうです。「宝永五年(1708)霜月吉日 廿六夜待供養」と刻まれています。「中神の百万遍供養塔」は、「南無阿弥陀仏」と百万回唱える事で、死後、極楽浄土へ導かれるという業が完了したために建てられた記念碑だそうです。裏が道標になっているようで、大山の文字が読み取れました。

しばらく「狭山茶どころ通り」という茶畑の中の一本道を行きます。快適な道ではあるものの、意外と交通量が多く、歩道が皆無なので歩きや自転車には向かないようです。

「入間茶業公園」は、茶畑のど真ん中にある高さ3mの富士塚に造られた公園です。展望台があり、こちらは無料で利用できます。

「日本一の道標」は、「北狭山茶場碑入り道」と書かれた単なる大きな石碑なのですが、高さが4.1mあって、日本で一番高い道標ということで昭和61年にギネスブックに認定されたそうです。

いちょう通りという造りかけの道を再び北に戻ります。「龍岳山 観喜院 龍圓寺」は高麗の聖天院末の真言宗智山派寺院で、歌人としても著名で蓮花院を創建した寂蓮法師(藤原定長)が、建仁年間(1201~04)に千手観世音像を安置して創始、俊誉和上(宝永6年(1709)寂)が中興しています。本尊の千手観音とは別に「田谷の井」から発見された観音像を祀る「田谷稲荷」は子育て観音として信仰を集めてきたそうです。

「龍圓寺」も「市川陣屋(市川茂左衛門満友屋敷)跡」といわれています。市川氏は信濃の豪族で山本勘助の実在を裏付けた市河家文書が有名だそうです。市川内膳正は武田に仕えていましたが、三河長篠の戦いで討死し、その息子の市川茂左衛門満友は少年時代に徳川家康に仕え、小田原城の戦いや関ヶ原の戦いに従軍しており、この辺りに4百石余りの所領を得て、この地に屋敷を構えていたそうです。ただ龍圓寺が、慶安2年(1649)には徳川家光より寺領15石の御朱印状を拝領した頃には、この地を離れていたと考えられるそうです。昭和12年に造立された「北狭山茶場の碑」があり、入間市指定文化財となっています。

「入間台遺跡公園(窯跡公園)」は、平安時代に瓦を製作していた登り窯「新久窯跡」があった場所で、現在は児童公園になっています。東金子窯跡群に属す窯跡のひとつで、ここの瓦は、835年に落雷によって焼失してしまった武蔵国分寺の再建に用いられたそうです。公園と龍圓寺の墓地の間に蓮池があり、宅地造成で川は暗渠化されて無くなっていますが、元は沢の源頭部だったようです。

「法栄山 東光寺」は、澁澤・增田・吉田・桑田の四家が開基となり、印融(永正6年(1509)寂)を開山として迎えて創建された大久野村西福寺の末の真言宗智山派寺院です。旗本五味豊旨の家臣43名が、前主君備前守豊直の遺徳をしのんで、東光寺に献納した梵鐘が市指定有形文化財となっています。鐘の内側に家臣の氏名が刻まれているそうです。

ここも「五味氏(五味金右衛門豊直屋敷)屋敷跡」といわれています。江戸時代初期の武田家の旧臣の旗本五味氏の屋敷跡で、東光寺は元禄15年(1702)に現在地に移転してきたと伝えられるため、その時に屋敷跡に移ってきて五味氏の菩提寺となったのだと思われます。五味氏は、五味主殿助政義が天正10年(1582)の武田氏滅亡に伴い徳川家康に仕官し、家康と共に関東へ移り住んだのが始まりで、政義はその年の内に亡くなったそうですが、息子の備前守豊直が館を建設したといわれています。豊旨は京都所司代配下の京都郡代を務めていたそうです。京都郡代は後に京都代官と改名され、延宝8年(1680)に豊旨が没すると、その後は小堀氏による世襲となったそうです。墓地に五味氏累代の墓石があるということだったのですが、暑さのせいかまたしても見落としてしまいました。

「小谷田神明社」は、由緒不明の農家のお屋敷の横にある屋敷神のような小社です。

「小谷田氷川神社」は、文治4年(1188)に、東光寺のところでも名前が出て来た増田氏の祖先の増田佐内という人が大宮氷川神社の分霊を勧請して創祀した神社で、明治5年に村社に列格し、明治40年には中内手の沢神社及び境内社八坂大神社、森沢の稲荷神社、谷津の大若神社を合祀しています。江戸時代の別当は当然東光寺です。

「中野原稲荷神社」は、たくさんの鳥居が奉納されている立派な稲荷神社です。東光寺が別当を務めていた稲荷社三宇の1つで、江戸時代に名主が上京した際に、伏見稲荷から御神体を頂き、村の4ヵ所に祀ったといういい伝えがあります。この4ヶ所の稲荷は四方稲荷と呼ばれ、他の3つは「向稲荷神社」、増田昌已家の屋敷にある「牛沢稲荷神社」、三区で祀っている「霞川稲荷神社」だそうなのですが、霞川稲荷神社以外、場所がよくわかりませんでした。

今日も「アクアリゾートいるまの湯」で汗を流して行きます。入浴料は、2024年4月から値上がりしても500円という都内の銭湯より安いスーパー銭湯(沸かし湯)です。でも露天風呂や炭酸水素泉、サウナも3つあって必要十分なレベルです。レストラン当然もあります。

今日は国道16号沿いにある「蔵出し味噌 麺場 壱歩 入間店」で昼食にすることにしました。ここは田所商店系列の店のようなのですが、検索してみると田所商店とは半分別の独立したホームページがあり、店舗一覧には庄助とか他の名前の店も載っているので、フランチャイズで途中から系列店に加わった店なのだと思われます。ただメニューはほぼ一緒のようです。田所商店に入るといつも北海道味噌ばかり頼んているので、今日は期間限定の「山椒味噌ラーメン」を注文してみました。担々麺のような味噌ラーメンを想像していたのですが、さほど山椒の辛さは強くなく、辛味噌ラーメンを多少アレンジした程度のラーメンでした。食べやすくはあるけれど、もう少し山椒多目でもよい気がしました。

「入間市駅」に着きました。各駅で小手指まで行って、横浜中華街行の特別快速に乗り換えて帰ります。

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