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武蔵藤沢駅から不老川沿いを箱根ヶ崎駅まで(大森氏館跡~狭山飛行場跡~元狭山神社など)

上藤沢神明神社、小野家住宅、林八雲神社、松林寺、林神社、山田食品産業入間工場、大森氏館跡、土屋氏陣屋跡、長久寺、入間市博物館ALIT、中村屋中華まんミュージアム、狭山飛行場跡、二本木神社、兜稲荷神社、不老川源流、元狭山神社、耕心館、狭山池公園、円福寺( 関東)

パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )

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行程・コース

天候

晴れ時々曇り

登山口へのアクセス

電車
その他: 往路:目黒→山手線→池袋→西武池袋線始発小手先行→小手指→〃飯能行→武蔵藤沢

復路:箱根ヶ崎→八高線→拝島→昭島温泉湯楽の里→カレー食堂→昭島→青梅線→立川→南武線→武蔵小杉→東急目黒線→武蔵小山

この登山記録の行程

武蔵藤沢5:51→藤沢橋石造物群6:13→上藤沢神明神社6:19→小野家住宅6:35→林八雲神社6:41→松林寺6:46→林神社6:53→三井アウトレットパーク入間7:20→山田食品産業 入間工場7:35→大森氏館跡(入間市大森会館)7:58→土屋氏陣屋跡(長久寺)8:17→中村屋中華まんミュージアム8:56→陸軍境界石(狭山飛行場跡)9:00→二本木神社9:07→壽昌寺9:20→長福寺9:28→兜稲荷神社9:42→不老川源流9:48→元狭山神社10:00→五輪様10:28→耕心館(旧細渕家煉瓦製造用煙突)10:31→さやま花多来里の里10:42→狭山池公園10:44→圓福寺10:55→加藤神社11:04→箱根ヶ崎駅11:07

合計5時間16分

コース

総距離
約18.4km
累積標高差
上り約143m
下り約92m

高低図

GPX ダウンロード KML ダウンロード

登山記録

行動記録・感想・メモ

7月22日(土)は、加治丘陵と狭山丘陵の間の先週行ききれなかった居館2つとその他諸々を不老川に沿って回って来ました。

スタートは西武池袋線の「武蔵藤沢駅」です。ここから先週とは逆に八高線の「箱根ヶ崎駅」まで歩きます。藤沢の地名の由来は藤の多い沢があったのではないかといわれていますが、たぶんよくわからないのだと思われます。

藤沢駅からひたすら西へ進み、藤沢橋で不老川を渡ります。橋の先にある「藤沢橋石造物群」はら、どこにでもあるような石碑や石仏を集めただけの場所なのですが、①右側面に「江戸道」、正面に「八王子 おうめ」と刻まれた自然石の道標、②関谷氏が昭和42年に建てた「八十二翁 行く秋を 大日如来 ふじおわす」と刻まれた句碑、③関谷氏の祖先が建てた正面に「瑞光庵主喜雲祐海慈息」と刻まれた享保15年(1630)の石塔、④寛政9年(1794)の祐海法師が願主となり近村の世話念仏講中の人々が建立した山形角柱の石橋供養塔、⑤正徳元年(1711)に関谷氏が願主となり建立した大日如来坐像に加え、隣地にあった⑥三界万霊供養塔と⑦庚申塔を加え、現在は7基の石造物が並んでいるそうです。

国道463号を渡った先にある「上藤沢神明社」は、社記によると正徳年中に藤原正如が勧請したといわれる神社で、その後先程の関谷氏の祖先が寄進した土地に社殿を建て、村の鎮守となったそうです。藤沢村は上藤沢村・下藤沢村に分れるする前から、上・中・下に分かれており、総鎮守は下藤沢にある熊野神社でしたが、この神明社は上・中両村によって別に鎮守として祀られていたのものだそうです。また中藤沢は春日社も鎮守として持っていたようなのですが、明治5年に神明社が上藤沢村の村社に認定されたため、同44年に合祀されて、旧社地は神明社の飛び境内地となり、「大明神」と呼ばれているそうです。

「小野家住宅」は、18世紀に建てられた茅葺き屋根の農家がそのまま修復されて残されているもので、当時の武蔵野の開拓農家の面影を伝える住まいとして、国の重要文化財に指定されています。毎週日曜日に一般公開されているようです。

「林八雲神社」は、林神社の飛び地境内にある末社で、今も疫病除けの神様として信仰を集めているそうです。

「長清山 松林寺」は、吟國(承応2年(1653)寂)が開山となり創建した所沢市下安松の長源寺の末の曹洞宗寺院です。思いの外立派な寺で、境内に玄奘三蔵法師像があります。

そして「林神社」なのですが、天文年間に武田信玄一族の田中七郎左衛門が当地で八幡社を創建したのが始まりで、その後、当地の代官であった今井氏の寄進により承応3年(1654)に小字重殿原に再建され、寛文8年(1668)に天之御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊を祀って、「重殿権現社(尉殿権現)」として崇められてきた神社だそうです。維新後に十代神社と改称して明治5年村社に列格しましたが、明治40年に字甲下ノ原の山祇神社・字愛宕前の稲荷神社の2社を合祀して、地名をとって林神社と改称したそうです。重殿はさいたま市の浦和美園駅近くに一社あって、蔵王殿がなまったものといわれているので、こちらの重殿社も修験道か絡んでいるのかもしれません。

圏央道の入間ICに近くにある「三井アウトレットパーク入間」の前まで行ってみました。2008年4月10日オープンした敷地面積86,000㎡と店舗面積32,000㎡の国内最大級のアウトレットモールですが、名前にプレミアムがついていないため大衆向けのアウトレットといわれているようです。隣にコストコがあります。

アウトレットから国道16号を渡ると「山田食品産業 入間工場」があります。山田うどんのセントラルキッチン(工場)で、定期的やっている直売が人気だそうです。意外と大きな工場でした。

「大森錦次郎館跡(大森錦治郎好長屋敷)」は、「入間市大森会館」の北西の林の中に大森氏と加藤氏の宝篋印塔群とL字型の土塁が残っているものです。大森氏は徳川の旗本です。大森親好は松平清康と広忠に仕えていた古参の家臣で、孫の大森半七郎好長が大坂の陣での功を上げ、元和2年(1616)に武蔵国高麗郡の大森と高根200石を加増され、こかの館(陣屋)はこの時に築かれたと考えられています。この地には大森氏の館の他に、菩提寺の崇巖寺(廃寺)がありました。加藤氏は好長の妻の実家で、義父の加藤重正と好長次男で重正の養子になった重長とその妻のものが宝篋印塔群に含まれています。

次の真言宗豊山派寺院の「浄悦山 凉光院 長久寺」の近くには、「土屋氏陣屋跡(土屋忠治郎利清屋敷跡)」があったといわれています。土屋氏は武田の家臣でしたが、土屋利常が徳川の旗本となり、寛永2年(1625)に二代目の利次この地に570石余の領地を与えられ陣屋を築きました。中野村北部の土屋新田(現宮寺北中野)を開墾しています。その一角に建てられた長久寺は利次の次男成勝を第一世住職栄俊として正保2年(1645)に創建された寺です。土屋氏の菩提寺は当初は二本木の地福寺(廃寺)でしたが、後に長久寺に移されています。墓地には土屋氏の土屋一族の墓付の墓石群があり、入間市指定有形文化財になっています。

「中村屋中華まんミュージアム」は、その名の通り、中華まんで有名な中村屋の工場に併設された工場見学施設で、見学には予約が必要らしいのですが、今年は4月22日(月)から8月中旬(予定)まで工場の生産調整期間のため休館とのことでした。

中村屋の工場の角にある「学舎の跡(狭山飛行場跡)碑」と交差点の反対側にある「陸軍境界石」は、かつてこの地に陸軍狭山飛行場があったことを示す史跡です。碑は中村屋によって建てられたもので、境界石には陸軍と刻まれています。陸軍狭山飛行場は昭和9年に開設された主に訓練用の飛行場で、敷地の南西側には陸軍航空士官学校分教場がありました。本校は今の航空自衛隊入間基地にあり、それ以外に狭山・高萩・坂戸・館林の陸軍飛行場が練習地として使用されていたとのことなので、それほど大きくない飛行場だったのだと思われます。終戦後は狭山台土地区画整理事業が行われ、狭山台工業団地の他に農地や住宅地になったそうです。

「二本木神社」は、武蔵七党の村山党が出雲伊波比神社・阿豆佐味天神社の2社の神様を祀った神社だといわれていますが、明治維新以前に少彦名命を祀った天神社があり、それが明治5年に村社となって、同45年に長福寺境内にあった八雲神社を合祀した際に、二本木神社を名乗るようになったともいわれています。二本木の地名は単に二本の大きな木があったためという説もあります。

二本木神社の東側の不老川の河岸段丘を下る坂は「オッパケの坂」といわれています。この「ハケ」は国分寺崖線の「ハケ」と同じ河岸段丘の意味です。

「鶴円山 壽昌寺」は、普済寺三世蔵海性珍禅師(応永16年(1409)寂)が開山となり高根に創建された後、三世文峰和尚の代に当地に移転してきた臨済宗建長寺派寺院です。東京都立川市柴崎町の普濟寺末です。享保15年(1730)4月に二本木村中宿、大森村の念仏衆と村民によって建立された「石造閻魔大王像」が入間市指定有形民俗文化財になっています。

八雲神社のあった「不盡山 長福寺」は、桃源宗怪(永徳2年(1382)寂)が開山となり坊に創建された臨済宗建長寺派寺院で、ここも關棟玄脱の代の寛文9年(1669)当地へ移転してきたそうです。普済寺末です。明治時代に造られた「百体地蔵」があります。壽昌寺と長福寺がこの地に移転してきた背景には、八王子と日光を繋ぐ日光脇往還の宿場町がこの地に出来たことが影響しているようです。

「兜稲荷神社」は、元狭山神社に合祀された駒形神社の旧地近くに建つ神社です。この駒形神社は当地の領主、旗本太田氏によって創建され、元後北条氏の家臣で、秀吉の小田原征伐後この地に土着した栗原氏が神職を務めてきたそうです。太田道灌の子孫で旗本となった太田重正、資宗父子が板橋区蓮沼や足利市山川町に領地を得ているので、細かい領地がここにもあったと推測されます。

兜神社の南側にある昭和シェルGSの裏が実質的な「不老川源流」です。この先は暗渠となり、幾つかの細い流れに分かれるようです。かつては国道16号の南西側に湿地帯の池があったそうなのですが、今は埋め立てられてホテルや倉庫が並んでいます。

そのもう少し西側に保存樹林地29号を背にして建っているのが「元狭山神社」です。この森が蓄えた水が不老川の源流であるとするならば、元狭山という地名は絶妙なネーミングです。神社自体は、元狭山村にあった4つの神社、駒形鎮座駒形神社、高根鎮座高根神社、駒形富士山鎮座八雲神社、富士山栗原新田鎮座子安神社を、明治維新後に村社にするために移転合併したもので、本殿は富士山の八雲神社(天王様)のものを拝殿は駒形神社のものを使っているそうです。大正7年に地名をつけて元狭山神社と改名しています。

「五輪様」は富士山公園にある古びた五輪塔です。富士山地区を開発した「細渕家」が江戸中期に先祖を祀るために建てたものだそうです。傍らに推定樹齢300年以上、高さ14m、目通り2.1mの野柿の一種の「五輪様の柿の木」があります。

「瑞穂町郷土資料館」の北側にある「耕心館」は、その細渕家の旧宅を移築整備したものです。豪農であった細渕家は、明治以降は醤油醸造や煉瓦製造業にも乗り出しており、「旧細渕家煉瓦製造用煙突」が残されています。屋根に天窓がつけられているので、養蚕もやっていたのだと思われます。

「さやま花多来里の里」は、北多摩有数のカタクリの群生地で、20万株以上のカタクリの花が桜の季節には咲き乱れます。

「狭山池公園」は、かつてこの場所にあった巨大な湧水池の「筥(はこ)の池」の名残である池を園地化したものです。筥の池の名前の由来は、池の東側から南東側に高さ2~4mの箱根ヶ崎断層の断層崖があり、南から西にかつては円福寺川という川が流れいたため、池のある場所が箱の底のような地形だったからといわれています。筥の池は平安時代の歌集「六帖」や「八雲御抄」(鎌倉時代初期)・「夫木集」(鎌倉時代後期)・「北國紀行」(室町時代)などに歌が記載されるほどよく知られた池で、その理由として、鎌倉街道の1つが通る交通の要衝だったためともいわれています。江戸時代までは玉川上水へ助水するほど水量が豊富でしたが、文化4年(1807)に大規模な池さらいが実施されてから湧水量が減り、現在の規模になったといわれています。見沼のように埋め立てられてしまったのかもしれません。現在は残堀川の源流である他、不老川の源流とも言われていますが、先ほど見たとおり不老川はつながってはいません。池の南側に蛇に絡まれた次右衛門が、蛇をほどこうと蛇に噛みついたところ、蛇が大蛇となり、傷口から血が七日七夜流れ続け、退治された後、狭山池の水が涸れて小さな池となったという「蛇喰い次右衛門」伝承が書かれた案内板があります。

「狭山稲荷神社」は、圓福寺の墓地にある神社です。創建年代は不明ですが、御神璽に「武州多摩郡箱根ケ崎安鎮、稲荷神社、道中外宮、本宮、初午日、松本筑後守」と記されています。

「北小山 圓福寺」は、箱根ヶ崎周辺で一番大きな臨済宗建長寺派寺院で、巨大な仁王門と立派な如意観音堂があります。福正寺9世梅室和尚(天正15年(1587)寂)が開山となり天正元年(1573)に創建され、江戸時代には寺領11石の御朱印状を拝領しており、東京都指定有形文化財「紙本着色観心十界図」が所蔵されています。

箱根ヶ崎駅の少し南側にある「加藤神社(加藤八幡宮)」は、武田の家臣で上野原城主であった「加藤丹後守景忠」が、天目山で最期を遂げた武田勝頼から離れてこの地に逃れるも、北条氏配下で当地を任されていた村山土佐守に攻められ、天正10年(1582)に自害したのを哀れに思った地元の人達が塚(加藤塚)を造って葬った跡地に建てられた神社です。加藤氏の後裔と云われる上野原の加藤最次郎が石塔を建てて、円福寺に馬上丹後守像等を納めたのをきっかけに、村民の間に信仰が広がったそうです。当初は八幡社と称していましたが、明治35年加藤神社と改称しました。なお加藤景忠の墓は上野原にもあり、長篠の戦いにおいて戦死したとも、戦いの後で病死したともいわれていて、加藤家も武田一族の勝沼信友の3男を養子に入れて、信景(次郎左衛門尉・丹後守)に継承されたそうです。加藤塚は、道路整備のために崩されてしまった今はありません。

「箱根ヶ崎駅」に着きました。箱根ヶ崎の語源は、「筥(はこ)の池」以外に、神奈川県の南端の箱根と一緒の、「ハコ」は神の棲む「ネ」は山の意という説もあるそうです。

今日は近くて時間が早いので拝島駅の「昭島温泉 湯楽の里」で汗を流して行きます。ここは駅から玉川上水沿いを10分強の行きやすい場所にあるので、奥多摩の山から五日市線で帰ってきた時によく利用していた温泉です。市街地にありますが、隣が玉川上水のため、露天風呂から見える緑が美しい、なかなか雰囲気がよいです。現在の料金は平日950円、土日1,050円、泉質はpH8.5のアルカリ性単純温泉で、高濃度炭酸泉とサウナが2種類あります。

曇ってきたので、温泉からの帰りは拝島駅には戻らず、昭島駅まで歩くことにしました。所要時間は変わりません。

で、駅南口の「カレー食堂」という店で昼飯を食べて帰ることにしました。スパイスカレーと欧風カレーの二刀流の店で、「チキンマサラ」カレー850円の大盛+150円で、足してちょうど1,000円を注文してみました。都心に多い凝りすぎなスパイスカレーとは違って食べやすい味&盛付けのカレーで、駅まで来て小腹がすいた時にお勧めです。考えずに食べられます。

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