鎌倉街道上道(狭山市駅~女影ヶ原古戦場跡~西大谷駅)
徳林寺、入間川御陣、狭山八幡神社、清水八幡宮、八丁渡し、影隠地蔵、藤塚古墳、日光脇往還、鎌倉街道上道、駒形神社、霞野神社、女影ヶ原古戦場、女影時計台、女影八雲神社、女影白山神社、高萩飛行場跡地、清蓮寺、駒寺野新田日枝神社、国渭地祇神社、大家城跡、新町薬師堂( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
曇り後晴れ
電車
その他:
往路:目黒→山手線→新宿/西武新宿→西武新宿線→新狭山→〃→狭山市
復路:一本松→東武越生線→坂戸→東武東上線→和光市→副都心線→中目黒→東急東横線→学芸大学
狭山市駅6:24→徳林寺(入間川御陣候補地①)6:28→狭山八幡神社(入間川御陣候補地②)6:44→子之神社6:54→清水八幡宮6:58→本富士見橋(伝・八丁の渡し)7:01→影隠地蔵7:18→今宿遺跡7:26→智光山公園7:44→圏央道/南小畦川7:55→藤塚古墳/日光脇往還8:08→鎌倉街道上道碑(第二小畦川)8:18→駒形神社8:27→霞野神社(女影ヶ原古戦場碑)8:35→神流川(下小畦川)/女影廃寺跡8:41→女影時計台8:42→真福密寺8:47→女影八雲神社8:52な→女影白山神社8:54→JR川越線踏切8:57→小畦川8:59→高萩飛行場跡地(旭ケ丘)9:06→旭ケ丘神社9:17→清蓮寺9:32→駒寺野新田日枝神社9:41→鎌倉街道説明板9:58→西大家駅10:01→国渭地祇神社(大家城跡)10:03→万葉歌碑10:11→上新田日枝神社10:28→新町薬師堂10:35→野天風呂蔵の湯鶴ヶ島店10:45~12:40→麺屋信玄12:46~13:09→一本松駅13:18
合計4時間36分(温泉、ラーメン除く)
7月27日(土)は、鎌倉街道上道を狭山市駅から西大家駅まで歩いてきました。この辺りはほどんど行ったことのある場所ばかりなのですが、鎌倉街道を通しで歩いたことがないのでイメージがつながっておらず、この機会に縦走してみることにしました。
今日のスタートは「狭山市駅」です。何度か来ているのですが、これは外せないだろうということで、「入間川御陣(いるまがわごじん)跡」に寄っていきます。
「入間川御陣」は、足利尊氏が、弟の直義との争い「観応の擾乱」に「薩埵山の戦い」で勝利した後、直義についていた関東執事(後の関東管領)上杉憲顕を追放し、畠山国清を後任に任命しましたが、憲顕が本拠地である上野国戻り勢力を回復しつつあったため、これを牽制するために、入間川の渡し場があり、鎌倉街道上道の要衝であったこの地に、初代鎌倉公方の「足利基氏」を向かい入れて本陣(宿営地)を築きました。これが「入間川御陣」です。当時基氏はまだ13歳でした。正平8年/文和2年(1353)から6~9年間、鎌倉府がこの地に移され、基氏は「入間川殿」と呼ばれていました。しかしその後、尊氏が亡くなると、成長した基氏は幼い頃自分の補佐をしていた上杉憲顕の復権を画策し、国清を更迭してしまいます。怒った国清は領国の伊豆で反乱を起こし、これを鎮圧するために基氏は入間川を離れて鎌倉に戻り。入間川御陣は終焉を迎えます。しかし、鎌倉公方や関東管領上杉氏はその後、埼玉~北関東に拠点を移して争うようになるので、入間川御陣はその始まりということもできると思います。
狭山市駅から少し北へ行くとまず「福徳院不動尊」があります。現在は「徳林寺」の境内仏なのですが、元はこの地の大富豪であった綿貫家の守本尊で、成田山新勝寺の熱心な信者だった二代目孫兵衛が新勝寺から大護摩の浄灰を元に謹製された不動明王像を授与され、それを管理する福徳院という別当寺があったようです。徳林寺には明治8年に寄贈されています。境内の右手に「徳林寺中興開基 綿貫家一門墓所」と書かれた綿貫家の墓所と綿貫家の屋敷の稲荷にあった「西東の碑」があります。墓所は狭山市駅西口駅前にあったのを、再開発で平成20年に移転したもので、西東の碑は綿貫家が所有する膨大な土地の基準点だったそうです。
福徳院不動尊の北側にある「徳林寺」が「入間川御陣候補地①」です。正慶2年(1333)に新田義貞が本陣を置いた場所ともいわれています。入間市金子の金子十郎家忠の屋敷跡といわれる瑞泉院(廃寺)末の曹洞宗の寺院で、永正乃至享禄(1504~32)頃に、この地の地頭であった小澤主税法謚白翁常清が開基となり、一樹存松(天文2年(1533)寂)を開山に迎えて、小澤某が所有していた唐像の正(聖)観音を本尊として創建されたといわれています。この小澤某は小澤主税と同一人物とも別人ともいわれていますが、はっきりしないようです。ここに入間川御陣があったといわれているのですが、先ほどの福徳院不動尊がある高台の下の低地になるため、本陣を作るのならここではなく不動尊のある場所という気がします。
徳林寺の西側にある「狭山八幡神社」も「入間川御陣候補地②」になっています。こちらはしっかり台地の縁の高台にあります。狭山八幡神社は、室町時代初期創建とされる古社で、源氏一族に武門の神として長らく崇拝されてきました。特に新田義貞の信仰が厚く一時期「新田の八幡宮」とも称されていたそうです。元弘3年(1333)5月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるため当地へ兵を進めた際、戦勝祈願に参拝し、その時に馬をつないだという「駒つなぎの松」があります。慶安2年(1649)10月に江戸幕府から5石1斗余の朱印地を賜っています。境内社の「思兼神社(太子様)」「琴平神社」「八雲神社」「大鷲神社」は、それぞれ祭りが行われているそうです。また「入間川神社」は日清戦争から太平洋戦争までの地域の戦死者と地域に貢献した文化人を祀る神社で、入間川御陣とは関係ないようです。
「子之神社」は、飯能にある子ノ権現を祀った小社です。かつて慈眼寺という寺の境内にありましたが、慈眼寺がなくなったため、あちこちたらい回しにされたため、悪疫が広まり、諏訪神社があったこの場所に社殿を建ることでようやく落ち着いたそうです。祭神は一応大国主命となっていますが、本尊には子ノ聖大権現が祀られています。
「清水八幡宮」は、源頼朝の放った追っ手により討たれた木曾義仲の息子「清水(源)義高(木曾清水冠者義高)」を供養するために、北条政子が建てたと伝えられている八幡宮です。清水義高は鎌倉に人質として住まわされていましたが、義仲が討たれたため、身の危険を感じて奥州の藤原秀秀衡の元へ逃亡しようとしましたが、入間川八丁の渡しで追っ手に捕らえられて殺害されたそうです。祭神は義高一柱のみで通常の八幡神社に祀られている応神天皇等は祀られていません。かつては絢爛豪華な大社でしたが、洪水被害により狭山市中央公民館付近にあった成円寺(廃寺)境内に移されていましが、その後来歴を刻んだ永享2年(1430)石祠が出土したため、この場所に移されたそうです。この石祠は本殿の中にしまわれているとのことです。現在の管理は狭山八幡神社で行っているそうです。
清水義高も渡ろうとした鎌倉街道上道の「八丁の渡し」は、清水八幡宮のすぐ横の「本富士見橋」の辺りにあったといわれています(もう少し下流の奥富と柏原の間にあったという説もあり)。大きな橋や渡し船があるような場所ではなく、川の浅瀬を徒渉していたそうです。越辺川や高麗川などの大きな川が合流するのは川越の先なので、この辺りはまだ歩いて渡れたのかもしれません。
入間川の対岸を上って行くとある「影隠地蔵」にも清水義高がこの地蔵の陰に隠れたという伝説が残っています。影隠地蔵の横の坂道は「信濃坂」といい、その昔信濃の国へ通じていたので、この名がついたともいわれてます。ここに今日最初の鎌倉街道の解説板があります。
信濃坂の反対側の住宅地にある「今宿遺跡」は公園に復元された竪穴式住居がある奈良・平安時代の集落跡の遺跡で、狭山市指定史跡になっています。昭和44年の住宅地開発の際に48軒もの住居跡が見つかり、鉄や銅を使った農具、小刀、矢尻の他、釉薬のかかった灰釉陶器・緑釉陶器、炭化したコメ・ヒエなどが見つかっています。
「山田うどん智光山公園店」の少し先にある「新ラーンンショップ狭山本部」は、狭山市周辺に2~3店舗あるラーメンショップのフランチャイズ店のグループです。あちこちで見かけるニューラーメンショップとは別のようです。
新ラーメンショップの先にある「智光山公園」は総面積53.8ヘクタール(東京ドーム約11個分)の広大な(総合公園で、こども動物園や都市緑化植物園、市営ヘラ鮒釣場などがあり、すぐ近所にある肉のテーマパークであるサイボクと組み合わせれば、一日中、温泉やグルメつきで楽しむことができます。
「圏央道」をぐぐり、「南小畦川」を渡ります。南小畦川は丹党中山氏の菩提寺でもある日高市の智観寺がある中山を源流とする川で、関越道をくぐってすぐ小畦川に合流します。
そして日高CCの横を通り抜けると、国道407号との交差点に出ます。この国道407号が八王子と日光をつなぐ「日光脇往還」です。この交差点には「藤塚古墳」という古墳があります。直系13mの円墳で、場所柄、道標としても使われていたのだと思われますが、今は草ぼうぼうで言われなければ古墳とはわかりません。
もう少し西へ行くと用水路のような第二小畦川の橋の手前に「鎌倉街道上道碑」があり、日高市による解説板がつけられています。
「駒形神社」は、入口まで行くのが面倒なのですが、一応寄っていきます。鎌倉街道が近いので馬を祀った神社に見えますが、コマはコマでも高麗氏の高麗で、それが時を経て駒になったとのそうです。「駒形は高麗方に通じる」と社伝にあります。祖先が騎馬民族だった髙麗人が放牧用の馬を連れてきたとも考えられます。
神流川の河岸段丘上に建つ「霞野神社」に着きました。この辺りは「女影ヶ原古戦場跡」といわれ、碑と解説板が建てられています。「霞野神社」は、元は諏訪神社で、明治43年、村社になるために女影地区にあった諸社を合祀した際に、霞野神社と改称されました。養蚕守護神として信仰されてきたそうです。
「女影ヶ原古戦場跡」は、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の次男で2024年7月現在放映中のTVアニメ『逃げ上手の若君』(『脳噛ネウロ』や『暗殺教室』の松井優征原作)の主人公「北条時行」と足利尊氏の弟直義(※この頃はまだ兄と仲違いしていなかった)が戦った場所です。アニメが人気になれば聖地となるかもしれません。この頃の時行は諏訪頼重の支援を受けていたため、連戦連勝で、建武政権軍の渋谷・岩松軍を打ち破り、小手指ヶ原の戦いにも分倍河原の戦いにも勝利し、その勢いのまま鎌倉まで攻め上がり、直義を追い出し鎌倉を奪還を果たします。ただその後、京都から援軍の足利尊氏勢に静岡県の遠江で破れた後、劣勢となり、わずか20日で鎌倉を明け渡してしまいます。しかしそんなことでは諦めない時行は、今度は敵の敵は味方ということで、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞(既に死去)の南朝側とタッグを組み、義貞の遺児である義宗・義興兄弟の挙兵に加わり、再度鎌倉を奪還します。しかしこれも足方尊氏の反撃に合い、最終的に鎌倉竜の口で処刑されます。この北条時行の一連の戦いを「中先代の乱」といいます。
神社の下を流れる「神流川」は「下小畦川」とも呼ばれる小畦川の支流で、飯能市平松の久邇CCの池を源流とするようです。下流は圏央道と交差した直後に小畔川に合流します。
神流川を渡った先の左手の畑は「女影廃寺跡」といわれていて、今は何もありませんが、「高麗郡寺」の比定地の一つになっているそうです。「女影廃寺」は高麗郡が設置された8世紀第24半期に建立され、9世紀後半まで存続したと考えられていて、別名「若宮遺跡」と呼ばれます。
「女影時計台」は女影交差点にある時計台で、昭和3年(1928)に高萩村青年団が御大典記念として建設したものだそうです。嘘か本当か、真夜中車で走っていると時計台に女の影が映るという都市(田舎)伝説があります。
「瑠璃光山 安養院 真福密寺」は、現在は薬師堂が残るのみですが、元は新義真言宗の越生町の醫王寺末の寺院だったようです。ただ真言宗智山派の寺院名鑑に名前がないので、地域持ちの寺かもしれないということです。
「女影八雲神社」は由緒不明の北口公会堂敷地内に祀られている小社です。
「女影白山神社」も由緒不明ですが、疫病退散の神社らしいです。疫病退散はどちらかいというと、さっきの八雲神社の仕事っていう気がしないでもないですが…。
JR川越線の踏切を渡ります。「武蔵髙萩駅」には今回は行きませんが、駅北側の平坦な台地上に「高萩飛行場」や「航空士官学校」があった頃は、軍の関係者や家族などでとても賑わっていたそうです。士官学校の卒業式に昭和天皇が訪れたこともあり、駅には貴賓室も設けられていたそうです。
「小畦川」は、この辺の小畦川系の川の本流で、源流は宮沢湖となっており、関越道をくぐってすぐ南小畔川を合わせ、入間川に合流する直前の越辺川に合流します。
その「高萩飛行場跡地」に着きました。地図で四角く碁盤の目のようになっている区画がそうです。区画の東側にある高萩北公民館前に石碑や解説板があります。高萩飛行場は昭和13年12月に、陸軍航空士官学校の高萩分教場として利用が開始された先週の狭山飛行場と同じような位置づけの飛行場でした。終戦後に農地に戻され、現在は住宅地や工業団地に変わりつつあります。
その飛行場跡地に建つのが「旭ケ丘神社」です。この神社は飛行場が昭和20年に閉鎖され、開拓地になった頃に創建された神社のようですが、飛行場が出来る前からあった神社が元となっており、言い伝えによると平安時代末期に修行僧がこの地に庵を結び、守り神として祀った祠が始まりとされています。現在の祭神は、天照大神、素盞嗚尊、月読命の三柱となっており、五穀豊穣、無病息災、厄除け、家内安全の御利益があるそうです。敷地内には開拓碑が幾つも建てられていて、中には高萩飛行場跡の石碑もあります。旭ケ丘には、戦後134人が入植し、出身地は北海道が多かったそうです。開拓当時は乾燥に強いスイカやメロンが特産だったそうです。
「常照山 清蓮寺」は、真言宗智山派の無住の寺院ですが、境内に蛇にまかれた宇賀神の石仏があります。宇賀神は五穀豊穣をもたらす水の神といわれていて、稲荷として祀られていることが多いです。
「駒寺野新田日枝神社」のある駒寺野新田の駒寺野は、716年に開拓のために入植した高句麗人が建てた高麗寺があった場所でした。しかし開拓が上手くいかず、髙麗人は高麗本郷や新堀の西側の方に移ったために寺は不要になり放棄されましたが、文字を駒に変えて地名だけが残りました。時は流れ、亨保9年(1724)に勘六新田が開拓され、延宝5年(1748)にはこの地は代官高室四朗左衛門が管理する徳川幕府直領となります。そこの村社として祀られたのがこの日枝神社だそうです。
西大家駅の南側まで来ました。駅の横を鎌倉街道上道が通っているため、「鎌倉街道説明板」があります。
「国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)(森戸神社)」は、延喜式内社の1つ国渭地祇社の論社ですが、同じ論社の埼玉県所沢市の北野天神社が定説になっているとのことで、こちらはあまり有名ではありません。ひと昔前は「国一熊野大権現」と称していて、それが国渭地祇神社になったともいわれています。黒山三滝の本山派修験山本坊がここに観音堂を設置していたとの話も残っているので、その関係で熊野神社を名乗っていたのかもしれません。神社の創建は坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、その後、奥州藤原秀衡が再建したとなっています。国渭地祇神社は、北側を流れる高麗川の河岸段丘上にあり、高麗川の渡しを前にした鎌倉街道上道の要衝でもあるため、ここに「大家城跡」という城主不明の城跡があったといわれています。神社の裏には土塁のような土盛りも残されています。後北条氏の家臣の久米玄蕃という者がこの地に35貫の所領を持っていたという記述が北条役帳に残っているので、玄蕃が築いた北条の砦ではないかともいわれていますが、ハッキリしたことはわかっていません。ただ玄蕃の屋敷は駅の周辺にあったと推測されています。
国渭地祇神社から河岸段丘を下ると、東京国際大学入口に「万葉遺跡 大家が原歌碑」があります。万葉集14巻 3378の「入間道の大家が原のいはゐづらひかばぬるぬる吾にな絶えそね」が刻まれています。意味は
「入間野に生えている、『いはゐづら』を引けばぬるぬると続いて切れないように、私とあなたの間柄も何時までも続いていて欲しい」とのことです。大家郷は現在の越生から坂戸の一部である大家付近と推定されており、また入間道は鎌倉街道上道の前身の古代の道と思われます。
「西大家駅」に着きましたが、時間が早いので隣の一本松駅との間にある「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」まで歩きます。西大家駅の駅名の由来は、この地にあった大家村からきており、昔は大屋駅が隣にあり、その西側に出来た新駅なので西大家と名付けられたそうです。かつてはこの駅から日本セメントの工場まで西大家貨物線が延びており、廃線跡が今も残っています。
野天風呂蔵の湯に行く途中にある「上新田日枝神社」は、上新田が開拓される前にこの地に存在した大六道という集落の神社で、創建は中世に遡るのではないかといわれています。その後、上新田の鎮守社となり、明治に入って村社となっています。
「新町薬師堂」は、瑠璃山(新田山)長福寺の跡に残る薬師堂です。先ほどの上新田村が明暦年間(1655~58)に高倉村から分村された際に開山されましたが、江戸時代末期にはすでに廃寺になっていたそうです。境内に「鶴ヶ島学校跡」の石碑があるので、昔は立派な本堂のある寺だったと思われます。
「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に着きました。ここもいるまの湯に匹敵する安い入浴施設で、天然温泉なのに料金はコロナ後でも平日750円、土日850円です。ただ泉質はあまり温泉感のないナトリウム・カルシウム塩化物泉で温泉感は薄いですが、高濃度炭酸線があり、サウナはドライとミスト両方あります。
温泉を出たら、一本松駅に行く途中にある「麺屋信玄」で昼食にします。「信玄豚骨醤油ラーメン」を注文。これは一度食べたことがあるのですが、「信玄豚骨醤油ラーメン」を注文。改めて食べてみると、妙に塩気の強いラーメンで、麺もかんすいを使っていない感じの、蕎麦かうどんのような中太麺で、これに生ハムのようなというか鶏を蒸したような感じというか、低温熟成のチャーシューが乗り、独特の世界を形づくっています。
「一本松駅」に着きました。東武越生線で坂戸に出て、東武東上線に乗り換えて帰ります。
今日のスタートは「狭山市駅」です。この駅の下に鎌倉街道上道の入間川の渡しがあったため、古代から交通の要衝でした。
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KYOCERA KYF33
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狭山市駅から少し北へ行くと現在は「徳林寺」の境内仏の「福徳院不動尊」があります。でも隣の大観音像の方が目立っています。この観音像は徳林寺の本尊が正(聖)観音であることに由来するのだと思われます。
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KYOCERA KYF33
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「福徳院不動尊」です。元はこの地の大富豪であった綿貫家の守本尊で、成田山新勝寺の熱心な信者だった二代目孫兵衛が新勝寺から大護摩の浄灰を元に謹製された不動明王像を授与され、それを管理する福徳院という別当寺があったようです。徳林寺には明治8年に寄贈されています。
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KYOCERA KYF33
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不動尊の右手に「徳林寺中興開基 綿貫家一門墓所」と書かれた綿貫家の墓所があります。これは狭山市駅西口駅前にあったものを、再開発で平成20年に移転したものです。
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KYOCERA KYF33
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綿貫家一門墓所の横にある「西東の碑」は、綿貫家の屋敷の稲荷にあったもので、綿貫家が所有する膨大な土地の基準点だったそうです。
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KYOCERA KYF33
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「福徳院不動尊」からの眺めです。下に見えるのが「徳林寺」です。徳林寺は新田義貞が本陣を置いた場所で、「入間川御陣」の候補地①にもなっていますが、両方とも恐らくこの高台に築かれたのだと思われます。「入間川御陣」は、足利尊氏が、弟の直義との争い「観応の擾乱」に勝利した後、直義についていた関東執事上杉憲顕を追放し、後任に任命された畠山国清が、上野国で勢力を回復しつつあった憲顕を牽制するために、初代鎌倉公方の「足利基氏」を招いて築いた本陣です。
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「徳林寺」入口に着きました。入間市金子の瑞泉院(廃寺)末の曹洞宗の寺院で、永正乃至享禄(1504~32)頃に、この地の地頭であった小澤主税法謚白翁常清が開基となり、一樹存松(天文2年(1533)寂)を開山に迎えて、小澤某が所有していた唐像の正(聖)観音を本尊として創建されたといわれています。この小澤某は小澤主税と同一人物とも別人ともいわれていますが、はっきりしないようです。
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「徳林寺」本堂です。ここに置かれた「入間川御陣」はその後、当初まだ13歳だった基氏が成人し、尊氏も亡くなると、基氏は幼い頃自分の補佐をしていた上杉憲顕の復権を画策し、国清を更迭してしまいます。怒った国清は領国の伊豆で反乱を起こし、これを鎮圧するために基氏は入間川を離れて鎌倉に戻り。入間川御陣は終焉を迎えます。
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徳林寺の西側にある「狭山八幡神社」も「入間川御陣候補地②」になっています。こちらはしっかり台地の縁の高台にあります。
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「狭山八幡神社」です。室町時代初期創建とされる古社で、源氏一族に武門の神として長らく崇拝されてきた神社で、特に新田義貞の信仰が厚く一時期「新田の八幡宮」とも称されていたそうです。慶安2年(1649)10月に江戸幕府から5石1斗余の朱印地を賜っています。
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狭山八幡神社には元弘3年(1333)5月に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるため当地へ兵を進めた際、戦勝祈願に参拝し、その時に馬をつないだという「駒つなぎの松」があります。
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狭山八幡神社の境内社である「入間川神社」は日清戦争から太平洋戦争までの地域の戦死者と地域に貢献した文化人を祀る神社で、入間川御陣とは関係ないようです。
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「子之神社」は、飯能にある子ノ権現を祀った小社です。かつて慈眼寺という寺の境内にありましたが、慈眼寺がなくなったため、あちこちたらい回しにされたため、悪疫が広まり、諏訪神社があったこの場所に社殿を建ることでようやく落ち着いたそうです。祭神は一応大国主命となっていますが、本尊には子ノ聖大権現が祀られています。
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「清水八幡宮」は、源頼朝の放った追っ手により討たれた木曾義仲の息子「清水(源)義高(木曾清水冠者義高)」を供養するために、北条政子が建てたと伝えられている八幡宮です。清水義高は鎌倉に人質として住まわされていましたが、義仲が討たれたため、身の危険を感じて奥州の藤原秀秀衡の元へ逃亡しようとしましたが、入間川八丁の渡しで追っ手に捕らえられて殺害されたそうです。
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清水八幡宮の説明板です。祭神は義高一柱のみで通常の八幡神社に祀られている応神天皇等は祀られていません。かつては絢爛豪華な大社でしたが、洪水被害により狭山市中央公民館付近にあった成円寺(廃寺)境内に移されていましが、その後来歴を刻んだ永享2年(1430)石祠が出土したため、この場所に移されたそうです。
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「本富士見橋」で入間川を渡ります。鎌倉街道上道の「八丁の渡し」は、この橋のあたりにあったといわれています(もう少し下流の奥富と柏原の間にあったという説もあり)。大きな橋や渡し船があるような場所ではなく、川の浅瀬を徒渉していたそうです。
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入間川と奥多摩~奥武蔵の山々です。
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富士山も超うっすらと見えます。
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入間川対岸の河岸段丘を登ります。右側の林の入口に「影隠地蔵」があります。
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「影隠地蔵」です。清水義高がこの地蔵の陰に隠れたという伝説が残っています。元はお堂に納められた木像でしたが、廃仏毀釈で行方不明となり、現在の石のお地蔵様になったそうです。
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横の坂は「信濃坂」といい、その昔信濃の国へ通じていたので、この名がついたともいわれてます。
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信濃坂」の標識の横には、歴史の道と書かれた鎌倉街道の説明板もあります。
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「今宿遺跡」は公園に復元された竪穴式住居がある奈良・平安時代の集落跡の遺跡で、狭山市指定史跡になっています。
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「今宿遺跡」の説明板です。昭和44年の住宅地開発の際に48軒もの住居跡が見つかり、鉄や銅を使った農具、小刀、矢尻の他、釉薬のかかった灰釉陶器・緑釉陶器、炭化したコメ・ヒエなどが見つかっています。
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この辺りの鎌倉街道上道は交通量の多い幹線道路で、右手に「山田うどん智光山公園店」が現れます。ちなみに後ろの林は智光山公園のものです。
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続いて左手に「新ラーンンショップ狭山本部」が現れます。狭山市周辺に2~3店舗あるラーメンショップのフランチャイズ店のグループで、あちこちで見かけるニューラーメンショップとは別のようです。
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「智光山公園」に着きました。トイレがあるのでちょっと寄り道していきます。
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「智光山公園」のメインストリートです。総面積53.8ヘクタール(東京ドーム約11個分)の広大な(総合公園で、こども動物園や都市緑化植物園、市営ヘラ鮒釣場などがあり、すぐ近所にある肉のテーマパークであるサイボクと組み合わせれば、一日中、温泉やグルメつきで楽しむことができます。
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そして「圏央道」をぐぐります。
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続いて「南小畦川」を渡ります。南小畦川は丹党中山氏の菩提寺でもある日高市の智観寺がある中山を源流とする川で、関越道をくぐってすぐ小畦川に合流します。
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そして日高CCmの中を横目で見ながら進みます。
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八王子と日光をつなぐ「日光脇往還」であった国道407号との交差点に着きました。交差点の角にある「藤塚古墳」です。直系13mの円墳で、場所柄、道標としても使われていたのだと思われますが、今は草ぼうぼうで言われなければ古墳とはわかりません。
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この交差点から道幅が狭くなり、交通量も減り、道が鎌倉古道っぽくなります。
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用水路のような第二小畦川の橋の手前に「鎌倉街道上道碑」があります。
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「鎌倉街道上道碑」には、日高市による解説板がつけられています。
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第二小畦川の河岸段丘を蛇行しながら上る鎌倉街道上道です。
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この間田植えをしていたと思ったら、稲がもう実をつけていました。9月に入ると稲刈りが始まるので、あと1ヶ月少々の辛坊。
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「駒形神社」は、鎌倉街道が近いので馬を祀った神社に見えますが、コマはコマでも高麗氏の高麗で、それが時を経て駒になったとのそうです。「駒形は高麗方に通じる」と社伝にあります。祖先が騎馬民族だった髙麗人が放牧用の馬を連れてきたとも考えられます。
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神流川の河岸段丘上に建つ「霞野神社」に着きました。元は諏訪神社で、明治43年、村社になるために女影地区にあった諸社を合祀した際に、霞野神社と改称されました。養蚕守護神として信仰されてきたそうです。
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霞野神社の辺りは「女影ヶ原古戦場跡」といわれ、碑と解説板が建てられています。「女影ヶ原古戦場跡」は、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の次男の「北条時行」と足利尊氏の弟直義(※この頃はまだ兄と仲違いしていなかった)が戦った場所です。
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女影ヶ原古戦場の説明板です。この頃の時行は諏訪頼重の支援を受けていたため、連戦連勝で、建武政権軍の渋谷・岩松軍を打ち破り、小手指ヶ原の戦いにも分倍河原の戦いにも勝利し、その勢いのまま鎌倉まで攻め上がり、直義を追い出し鎌倉を奪還を果たします。ただその後、京都から援軍の足利尊氏勢に静岡県の遠江で破れた後、劣勢となり、わずか20日で鎌倉を明け渡してしまいます。
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「北条時行」は、2024年7月現在放映中のTVアニメ『逃げ上手の若君』(『脳噛ネウロ』や『暗殺教室』の松井優征原作)の主人公でもあります(※写真はジャンプコミック)。結構しぶとい若君で、鎌倉陥落後は、敵の敵は味方ということで、鎌倉幕府を滅ぼした南朝側の新田義貞(既に死去)の息子である義宗・義興兄弟の挙兵に加わり、再度鎌倉を奪還します。しかしこれも足方尊氏の反撃に合い、最終的に鎌倉竜の口で処刑されます。この北条時行の一連の戦いを「中先代の乱」といいます。
霞野神社で栽培されていた朝顔です。
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神社の下を流れる「神流川」は「下小畦川」とも呼ばれる小畦川の支流で、飯能市平松の久邇CCの池を源流とするようです。下流は圏央道と交差した直後に小畔川に合流します。
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神流川を渡った先の左手の畑は「女影廃寺跡」といわれていて、今は何もありませんが、「高麗郡寺」の比定地の一つになっているそうです。「女影廃寺」は高麗郡が設置された8世紀第24半期に建立され、9世紀後半まで存続したと考えられていて、別名「若宮遺跡」と呼ばれます。
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女影交差点に着きました。
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女影交差点には「女影時計台」があります。これは昭和3年(1928)に高萩村青年団が御大典記念として建設したものだそうです。嘘か本当か、真夜中車で走っていると時計台に女の影が映るという都市(田舎)伝説があります。
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「瑠璃光山 安養院 真福密寺」は、現在は薬師堂が残るのみですが、元は新義真言宗の越生町の醫王寺末の寺院だったようです。ただ真言宗智山派の寺院名鑑に名前がないので、地域持ちの寺かもしれないということです。
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そういう寂れた寺なのですが、歴史ありそうな板碑や石橋供養塔が無いわけでもないです。
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「女影八雲神社」は由緒不明の北口公会堂敷地内に祀られている小社です。
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「女影白山神社」も由緒不明ですが、疫病退散の神社らしいです。疫病退散はどちらかいというと、さっきの八雲神社の仕事っていう気がしないでもないですが…。
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JR川越線の踏切を渡ります。「武蔵髙萩駅」には今回は行きませんが、駅北側の平坦な台地上に「高萩飛行場」や「航空士官学校」があった頃は、軍の関係者や家族などでとても賑わっていたそうです。士官学校の卒業式に昭和天皇が訪れたこともあり、駅には貴賓室も設けられていたそうです。
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この辺りの鎌倉街道上道はこんな感じです。
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「小畦川」は、この辺の小畦川系の川の本流で、源流は宮沢湖となっており、関越道をくぐってすぐ南小畔川を合わせ、入間川に合流する直前の越辺川に合流します。
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「高萩飛行場跡地」に入りました。地図で四角く碁盤の目のようになっている区画がそうで、東西南北真っ直ぐな道が続きます。高萩飛行場は昭和13年12月に、陸軍航空士官学校の高萩分教場として利用が開始された狭山飛行場と同じような位置づけの飛行場でした。終戦後に農地に戻され、現在は住宅地や工業団地に変わりつつあります。
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高萩飛行場跡から見た哀愁の飛行機雲です。
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高萩飛行場跡の真ん中に建つのが「旭ケ丘神社」です。この神社は飛行場が昭和20年に閉鎖され、開拓地になった頃に創建された神社のようですが、飛行場が出来る前からあった神社が元となっており、言い伝えによると平安時代末期創建だそうです。現在の祭神は、天照大神、素盞嗚尊、月読命の三柱となっています。
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旭神社の敷地内には開拓碑が幾つも建てられていて、中には高萩飛行場跡の石碑もあります。旭ケ丘には、戦後134人が入植し、出身地は北海道が多かったそうです。開拓当時は乾燥に強いスイカやメロンが特産だったそうです。
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ヤギがいました。
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「常照山 清蓮寺」は、真言宗智山派の無住の寺院です。
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清蓮寺境内には、蛇にまかれた宇賀神の石仏があります。宇賀神は五穀豊穣をもたらす水の神といわれていて、稲荷として祀られていることが多いです。
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今週のサルスベリは白です。
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この道が鎌倉街道の古道かどうかはわかりませんが、農家と畑と平地林の道を北へ進みます。
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先週の栗に続き、柿の実も大きくなってきました!
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「駒寺野新田日枝神社」のある駒寺野新田の駒寺野は、716年に開拓のために入植した高句麗人が建てた高麗寺があった場所でした。しかし開拓が上手くいかず、髙麗人は高麗本郷や新堀の西側の方に移ったために寺は不要になり放棄されましたが、文字を駒に変えて地名だけが残りました。時は流れ、亨保9年(1724)に勘六新田が開拓され、延宝5年(1748)にはこの地は代官高室四朗左衛門が管理する徳川幕府直領となります。そこの村社として祀られたのがこの日枝神社だそうです。
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最近夕立が多いので、神社の鎮守の森にはテングダケの子供がたくさん出ていました。
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前方に西大家駅周辺の集落が近づいて来ました。
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朝からずっと見え続けている奥武蔵の山です。
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西大家駅の南側の「鎌倉街道説明板」がある交差点までやって来ました。後ろに延びている道が今辿ってきた鎌倉街道上道です。
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「鎌倉街道説明板」です。年々文字が見えなくなってきています。西大家の駅は駅の横を鎌倉街道上道が通っていることが、唯一のセールスポイントなのだから、もう少し大事にすればいいのに!
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「西大家駅」に着きました。駅名の由来は、この地にあった大家村からきており、昔は大屋駅が隣にあり、その西側に出来た新駅なので西大家と名付けられたそうです。かつてはこの駅から日本セメントの工場まで西大家貨物線が延びてきつ、廃線跡が今も残っています。
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西大家駅北口の「国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)(森戸神社)」に着きました。神社の創建は坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、その後、奥州藤原秀衡が再建したとなっています。延喜式内社の1つ国渭地祇社の論社ですが、同じ論社の埼玉県所沢市の北野天神社が定説になっているのであまり有名ではありません。ひと昔前は「国一熊野大権現」と称していました。
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国渭地祇神社の境内には、八幡神社と秋葉神社があります。
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国渭地祇神社の裏には土塁のような土盛りも残されています。神社自体、高麗川の河岸段丘上にあり、高麗川の渡しを前にした鎌倉街道上道の要衝でもあるため、「大家城跡」という城主不明の城跡があったといわれています。後北条氏の家臣の久米玄蕃という者がこの地に35貫の所領を持っていたという記述が北条役帳に残っているので、玄蕃が築いた北条の砦ではないかといわれています。
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あと神社の隣の農家のお宅の裏庭には大きくて立派な板碑がありますが、帰って調べてみたら、「大徳家阿弥陀種子板碑」といい、観応2年(1351)年の物で、高さが255cmあり、上武に阿弥陀如来種子をを、下に光明真言、願文、紀年銘などが刻まれているそうです。
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国渭地祇神社から高麗川の河岸段丘を下ると、箱根駅伝で有名な「東京国際大学」があります。
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東京国際大学の入口には「万葉遺跡 大家が原歌碑」があります。万葉集14巻 3378の「入間道の大家が原のいはゐづらひかばぬるぬる吾にな絶えそね」が刻まれています。意味は「入間野に生えている、『いはゐづら』を引けばぬるぬると続いて切れないように、私とあなたの間柄も何時までも続いていて欲しい」とのことです。
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万葉遺跡 大家が原歌碑の説明板です。大家郷は現在の越生から坂戸の一部である大家付近と推定されており、また入間道は鎌倉街道上道の前身の古代の道と思われます。
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綿雲が入道雲へと順調に育っています。今日も夕立が来るかな?
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「上新田日枝神社」は、集会所の奥にある小社で、上新田が開拓される前にこの地に存在した大六道という集落の神社でした。創建は中世に遡るのではないかといわれています。その後、上新田の鎮守社となり、明治に入って村社となっています。
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「新町薬師堂」は、瑠璃山(新田山)長福寺の跡に残る薬師堂です。先ほどの上新田村が明暦年間(1655~58)に高倉村から分村された際に開山されましたが、江戸時代末期にはすでに廃寺になっていたそうです。
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境内に「鶴ヶ島学校跡」の石碑があるので、昔は立派な本堂のある寺だったと思われます。
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「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に着きました。ここもいるまの湯に匹敵する安い入浴施設で、天然温泉なのに料金はコロナ後でも平日750円、土日850円です。ただ泉質はあまり温泉感のないナトリウム・カルシウム塩化物泉で温泉感は薄いですが、高濃度炭酸線があり、サウナはドライとミスト両方あります。
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温泉を出たら、一本松駅に行く途中にある「麺屋信玄」で昼食にします。
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「信玄豚骨醤油ラーメン」を注文。これは一度食べたことがあるのですが、改めて食べてみると、妙に塩気の強いラーメンで、麺もかんすいを使っていない感じの、蕎麦かうどんのような中太麺で、これに生ハムのようなというか鶏を蒸したような感じというか、低温熟成のチャーシューが乗り、独特の世界を形づくっています。
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「一本松駅」に着きました。東武越生線で坂戸に出て、東武東上線に乗り換えて帰ります。
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