鎌倉街道上道(菅谷館跡~笛吹峠~苦林野古戦場跡)
菅谷神社、菅谷館跡、向徳寺、大蔵神社、大蔵館跡、源義賢墓、縁切橋、将軍神社、明光寺、笛吹峠、大橋御所跡、金澤寺、竹之城跡、赤沼氷川神社、円正寺、今宿八坂神社、入西神社、入西氏館跡、龍光寺、善応寺館跡、大類氏館跡、十社神社、苦林宿跡、鎌倉街道跡、市場神社( 関東)
パーティ: 1人 (目黒駅は品川区 さん )
晴れ
電車
その他:
往路:目黒→山手線→東武東上線→武蔵嵐山
復路:一本松→東武越生線→坂戸→東武東上線→和光市→副都心線→中目黒→東急東横線→学芸大学
武蔵嵐山駅6:25→菅谷公園6:34→菅谷神社6:37→菅谷館跡6:44~57→学校橋7:09→向徳寺7:15→大蔵神社(大蔵館跡)7:25→源義賢墓7:34→安養寺7:40→大行院神明殿7:43→縁切橋7:46→将軍沢日吉神社(将軍神社)7:54→明光寺(八反田遺跡)8:01→笛吹峠8:18→大橋御所跡/鎌倉街道上道案内板8:49→金澤寺9:01→鳩山町役場(旗山)9:19→竹之城跡9:26→赤沼氷川神社9:46→おしゃもじ山麓10:02→円正寺10:06→今宿八坂神社10:12→都幾川10:17→専念寺10:21→苦林野古戦場(大類1号墳)10:33→平山(平田)氏陣屋跡10:42→入西神社(入西氏館跡)10:44→龍光寺10:46→善応寺塁10:53→善応寺館跡10:58→大類氏館跡(玉林寺公会堂)11:02→十社神社11:14→大類31号墳11:23→苦林宿跡(堂山下遺跡)11:26→鎌倉街道跡11:27→大類館(公会堂)/毛呂山町歴史民族資料館11:48→大類の万葉歌碑11:51→鎌倉街道遺跡12:03→葛川12:10→市場神社12:15→高麗川12:28→鶴明神社12:35→西光寺12:40→中新田神明社12:48→野天風呂蔵の湯鶴ヶ島店13:00~15:00→一本松駅15:11
合計6時間46分(温泉除く)
8月3日(土)は、鎌倉街道上道の続きで、武蔵嵐山駅から西大家駅を歩いて来ました。このエリアは間に「笛吹峠」があって、暑くなってから登るのはさすがにしんどいので、進行方向を逆にしました。
ということでスタートは「武蔵嵐山駅」駅です。嵐山の名前は大平山の下の槻川が蛇行しているあたりが、京都の嵐山に似てたからつけられたそうです。
駅南口を出てほぼ真っ直ぐ進むと池がある「菅谷公園」があります。この公園は菅谷神社の元境内地でした。池の中の島にある厳島神社は、江戸時代に領主であった猪子佐太夫が自分の崇敬する尾張国(現愛知県)津島町に鎮座する津島牛頭天王社の分霊を祀ったものだそうです。
公園の南側の小高い場所にあるのが「菅谷神社」です。畠山重忠が菅谷館を建てた建久元年(1190)に守護神として日吉大社を勧請した神社だそうで、昔は山王社と呼ばれていました。重忠死後は菅谷村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して日枝神社と改称し、村社となったそうです。
菅谷神社から国道251号を渡ると大きな公園になっている「菅谷館跡」があります。菅谷館は武蔵武士の鑑といわれる「畠山重忠(長寛2年(1164)~元久2年(1205))」の本拠地で、生まれ故郷の武蔵国男衾郡畠山荘(現埼玉県深谷市畠山)の館を出て構えた館といわれています。ただ鎌倉街道沿いの要衝にあるため、戦国時代に山内上杉家の家臣である「太田資康(太田道灌の息子)」や北条氏の属将である「小泉掃部介」の城としても使われ、現在残る立派な土塁や堀などの遺構は、後世に造られたものとされています。「関東管領 上杉顕定居城 菅谷城」の幟があったので、ここでは関東管領本人が住んでいたということになっているのようです。畠山重忠像や土塁や堀の跡が残されていて、遺構の保存状態が極めて良いため、昭和48年に国指定史跡に指定されています。平成20年3月には他の比企丘陵の城と共に名称が「比企城館跡群菅谷館跡」に変更になっています。また日本城郭協会から、忍城(行田市)、杉山城(嵐山町)とともに「続日本100名城」に認定されています。
「学校橋」で都幾川を渡ります。対岸にある長い桜並木は桜の名所として名高い「都幾川桜堤」です。
都幾川を渡ってすぐ右手にある「大福山 無量院 向徳寺」は、清阿(宝治2年(1248)寂)が開山した時宗寺院です。善光寺式阿弥陀三尊像と呼ばれる型式で造られた「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像の三尊像」が国重要文化財になっており、中尊の台座反花には、「武州小代奉治鋳檀那父栄尊母西阿息西文宝治三己酉二月八日」と武蔵七党の児玉党一族の小代氏の本拠地の小代(現東松山市正代)の地名が残されています。また「向徳寺板碑」は鎌倉・南北期・室町時代のもので、全部で28基あり、嵐山町の指定文化財となっています。
「大蔵神社」は、源義賢が兄・義朝の息子の源義平(悪源太)に討たれた「大蔵館跡」があった場所といわれていて、境内に土塁が残っています。「大蔵神社」の創建は、源義賢が天養元年(1144)に勧請したとも、また応永元年(1394)に草創されていた天台宗安養寺が比叡山延暦寺の守護である山王日吉神社(日吉大社)を勧請したとも伝えられており、かつては山王社と称していたそうです。明治時代に村社となり、地内の諸社を合祀して大蔵神社と改称しています。
大蔵館跡から東に行くと「源義賢の墓」といわれる供養塔もあります。義賢ゆかりの人々が供養のために建立した火災でやや赤く変色した五輪塔が壊れて三輪塔になった物が残っており、大正13年に県指定史跡に指定されています。源義賢は六条判官源為義の次男で、近衛院の春宮の帯刀の長を務めたことから帯刀先生と称していました。当初は上野国平井を本拠地としていましたが、秩父重隆の養子となって仁平3年(1153)にこの地に移り住み、上野・武蔵両国に勢力を伸長させました。その後、南関東を勢力基盤としていた兄・義朝と衝突することとなり、義朝の長子の「源義平」によって、この大蔵の地で久寿2年(1155)8月16日に養父と共に滅ぼされました。義賢の息子の義仲は木曽に逃れ、「木曽義仲」となって平家を都から追い出しますが、その後義朝の嫡男(三男)である源頼朝に滅ぼされます。
「大乗山 寂光院 安養寺」は、大蔵神社の別当寺であった天台宗寺院で、廣覺が応永元年(1394)に草創しています。天保10年(1839)造営の山門は、嵐山町考古資料に指定されているそうです。
安養寺の並びにある「大行院神明殿」は神社と寺が一体化した新興宗教のような寺院で、ただ「大蔵村義仲神社」なるものを建て、義仲のみならず源氏の全ての武将の石碑を建てて奉っています。
「縁切橋」は、水がほとんど流れていない水路にかかる小さな橋なのですが、坂上田村麻呂が岩殿(現岩殿観音)に住んでいる悪龍退治のための準備に大忙しの時に、京都から陣中見舞いにやってきた奥方を「天皇の命により征夷大将軍としてこの地に派遣されている私に、妻が訪ねて来るとは何事だ」と離縁してしまったという伝承が残っています。縁起が悪いため婚礼時には渡らない習慣があったそうです。
「将軍沢日吉神社」にも、坂上田村麻呂が東征に来ていた延喜10年(910)に天台宗の「明光寺」を建立し、その鎮守として山王社を創建したという伝承が残っています。将軍沢の地名は、村内の字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれ、明治維新後、大宮権現社(現将軍神社)は神明社、愛宕社、稲荷社と共に日吉神社に合祀されています。『風土記稿』よれば大宮権現社はかつて藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚(将軍塚)」の上にあったそうで、塚の記念碑が名前を坂ノ上田村麿に変えて神社の入口に建てられています。
将軍沢日吉神社の別当であった「竪横山 醫王院 明光寺」は、坂上田村麻呂が建てた一堂を守護するために造られた寺院といわれています。お堂は元弘・延元のころに兵火にかかって焼失して今はありません。鎌倉期の文応元年(1260)に造られた嵐山町最古の阿弥陀三尊種子板石塔婆が残っており、これは13世紀半ば頃から当地を領有していた世良田氏と関係があるのではないかといわれています。世良田氏は、上野国新田四分家の一つで、新田の遺領であった当地を継いで当地を領有したそうです。この寺が世良田氏の館の跡ではないかという説があり「八反田遺跡」と呼ばれています。
舗装された山道をどんどん登って行くと「笛吹峠」80mに着きます。トイレと東屋があり、また道の反対側には「峠の平1、2号墳」もあります。鎌倉時代には畠山重忠を始めとする数多くの武士が行き来していたそうです。北麓に残る坂ノ上田村麿の伝承から、鎌倉街道が通る遙か前から峠として使われていたといわれています。また鎌倉街道とは別に岩殿観音から慈光寺へ続く「巡礼街道」という東西の道も通っています。「笛吹峠」で有名なのは正平7年・文和元年(1352)閏2月28日に行われた「笛吹峠の戦い」です。これは新田義貞の義貞の三男の「新田義宗」が「宗良親王」を奉じて「足利尊氏」の軍勢と戦った「武蔵野合戦」の最後の戦いで、この戦い敗れた義宗は越後国に、親王は信濃国に落ちのび、関東の南北朝時代が完全に終わります。かなりの激戦だったようで、車道を通す工事の際に大量に人骨が出土したそうです。「笛吹峠」の名称の由来はこの戦いの最中に、月明かりに誘われて宗良親王が笛を吹いたという伝承から来ています。
笛吹峠でひと休みしたら南へ下ります。「羽黒堂」は、南側の笛吹峠の登り口にある小さな地蔵堂で、羽黒堂と呼ばれるようになった理由は、「坂上田村麻呂が大蛇を追いかけたが当地周辺で大蛇を見失った(はぐれた)」、「戦の行軍ではぐれて討たれた士卒を埋めたから」、「羽黒山のある出羽国出身の人を葬ったから」、また「お歯黒の(高貴な)大将の首を首を埋めたから」など諸説あるそうです。かつてこの周辺には「十一人塚」という複数の塚もあったそうです。
「大橋交差点」が近づいてくると、上が平らな丘が左右に見えて来ます。このどちらかに「笛吹峠の戦い」で「新田義宗」が「宗良親王」のために築いた本陣の「大橋御所」があったといわれています。義宗と宗良親王の軍は、笛吹峠を背に「御所谷」と呼ばれるこの地に本陣を置き、南側に「竹之城」と「旗山」を第2陣として構え、敵の攻撃に備えたそうです。新田義貞没後に兵を挙げた貞の子義宗と義興は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁して鎌倉街道を連戦連勝で南下し、一時は鎌倉を占拠しましたが、足利尊氏が鎮圧に乗り出すと徐々に劣勢になり、笛吹峠での最後の戦いにも破れ、新田義宗は越後へ、宗良親王は信濃へ落ち延びることとなります。
大橋交差点の手前には「鎌倉街道上道案内板」もあります。鉄道のない鳩山町のバスの終点「大橋バスターミナル」も道の反対側にあります。ここから川越交通バスか鳩山町営バスで、高坂、坂戸、越生、いずれかの駅に出ることができます。
「泉井山 金澤寺」は、建保6年(1218)に僧正達によって開基創建された寺院で、創建当時はときがわ町の慈光寺の末寺の天台宗寺院でしたが、その後衰退し、越生町の龍隠寺の16世梅叟高和尚を招き永禄12年(1570)に曹洞宗寺院として中興されています。南北朝時代末期の嘉慶2年(1388)に造立された十三仏板碑が鳩山町有形文化財に指定されています。
金澤寺の前を流れる川は「泉井川」で、その少し先を流れる川がこの辺りの川の本流である「鳩川」です。
鳩川の河岸段丘上の鳩山町役場ばある高台が「旗山」と呼ばれる南朝側が旗を掲げた場所です。鳩山町の名前の由来はこの旗山からきているそうです。旗山に鳩山町役場の上には「臺の屋敷跡」という、児玉党・越生氏が越生町に移る前の初期に構えた居館の跡もありますが、遺構も何もないので今日は行きません。
ここで鎌倉街道を離れて鳩川を竹之城橋で渡ります。対岸の水田が家庭菜園になった辺りが「竹之城跡」です。発掘調査により建物の跡が発見され「竹之城遺跡」という名前もついています。「大橋御所」の支城といわれていますが、ハッキリとした確証はないようです。
「赤沼氷川神社」は圓正寺と同じく「上杉安房守憲方」が至徳元年(1384)に創建と伝わる神社で、長らく赤沼の鎮守として祀られ、維新後には村社となっています。
「おしゃもじ山」は鳩山町の市街地を見下ろすようにそびえる小山で、今日は暑いので登りませんが、中世の物見用の砦の跡ともいわれており、中世の墓や大量の板碑が発見されています。また、江戸時代に旗本の内藤正勝がこの山に陣屋を構えたことが史実として残っています。おしゃもじ山の名前の由来は、「杓子母神(おしゃもじ様)」が祀られている祠があることからきていて、地元では子育ての神様として親しまれきました。
「寶陀山 圓正寺」は、関東管領上杉氏が開基になった伝えられる円接禅寺の跡地の東側に大震須高(寛永8年(1631)寂)が創建したと伝えられる曹洞宗寺院で、応安4年(1371)の銅製雲板や大小5枚の青石塔婆などの歴史的な遺物がたくさん残っています。
「今宿八坂神社」は、古くから人の出入りが多く、様々な疫病が流行した今宿の退散を祈って、寛文3年(1663)に京都の八坂神社から勧請された神社だそうです。今宿の地では長らく「熊野社」が地域の鎮守として祀られていたのですが、明治に入って八坂神社が熊野社に代わって村社になったそうです。
「今宿八坂神社」や「圓正寺」のある今宿は、鎌倉街道上道の宿場町で、越辺川対岸の苦林宿(古宿)の新興地ということで今宿と名付けられたそうです。
そして「今川橋」でこの辺り一番の大河である「越辺川」を渡ります。
「寶蔵山 専念寺」は創建年代不明の真言宗智山派寺院です。江戸期には境内に村鎮守の鹿島社を擁していました。
ここで鎌倉街道は南へ直進なのですが、「苦林野古戦場跡」など重要な史跡がたくさんあるので、寄り道をしていきます。専念寺のすぐ近所に「古戦場橋」という橋がありました。
「大類1号墳」が「苦林野古戦場跡」です。上に石碑と解説板があります。貞治2年(1363)に初代鎌倉公方・足利基氏と前越後国守護・芳賀入道禅可(高名)の軍勢による戦いが行われ、基氏軍が勝利したものの、あまりの激戦で多数の戦死者が出たため、後世、石碑が建てられたのだそうです。
苦林野古戦場跡から北東に進むと「平山(平田)氏陣屋跡」があります。東京の多摩地区で勢力を持っていた西党の平山氏の一族の「平山善九郎の館」があったとされる場所で、今も子孫の平田氏が住んでいて会社を営んでいます。平山氏の本拠地から遠過ぎるため、平山氏は住んではおらず、地元の有力者の平田氏に管理を委任していただけともいわれています。
平山氏陣屋跡のすぐ北側にある「入西神社」は、元は氷川神社で、明治の神社合併で近所の神社を合祀した際に、地名から入西神社とつけられた神社なのですが、入西という地名が、この辺りにちらばる児玉党系諸氏の祖である児玉党の本宗家2代目の児玉太夫弘行の次男・有道(入西)資行の名前と一緒のため、「入西氏館跡」ではないかといわれています。境内に土塁が残っています。有道(入西)資行の4人の子供、入西行業(浅羽氏の祖)、遠弘(小代氏祖)、有行(越生氏祖)、有道(入西)基行(真下氏の祖)がいます。
「龍光寺」は創建年代も山号も不明な無住の真言宗智山派寺院なのですが、隆圓(享保9年(1724)寂)が中興し、江戸期には小山氷川社(現入西神社)の別当を勤めていたそうです。
南に進むと「大龍山 善応寺」の裏と東側に「善応寺塁」と「善応寺館跡」いう、距離的に別々なのか同じなのか微妙な館跡出てきます。2つを併せて「中西城」という呼び名もあるそうです。善応寺は、広澤善応を開基とし、入道無窓國師(1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)寂)を勧請開山として文和年間(1352~56)中に創建したと伝えられる寺院で、最初の宗派は明らかではありませんが、承応2年(1653)に多和目永源寺第4世本秋によって曹洞宗に改めています。今は普通の家のようになっています。
「善応寺塁」は、戦国時代に北条氏の家臣布施弾正左衛門康則の所領だったため、その関係のものとも、足利基氏が入間川御陣にて戦闘の指揮をとっていた時代か、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った時代に構えられた陣城ではないかといわれています。善応寺開基の広沢氏が地元の土豪でその館という説もあり、広沢氏の子孫はまだ近隣に住んでいるそうです。要するによくわからないということです。
もう一歩の「善応寺館跡」も同じようなものなのですが、こちらは天満宮の祠の裏に巨大な土塁が残っています。
そして玉林寺公会堂んのある周辺の広い一帯が「大類氏館跡」です。十社神社との間の畑に土塁や堀の跡が残っています。「大類氏」も児玉党一族で、始祖・遠峯から五代目・行綱の次男行義がこの地に進出してきて大類氏を名乗ったのが始まりとされます。行義から四代目の子孫の行光は、足利尊氏と対立した足利直義の軍勢に加わり、薩埵峠の戦いで討ち死にしています。
「十社神社」は、苦林野合戦で足利基氏方の戦死した武将金井新左衛門ほか9名の英霊を祀った神社といわれています。境内には「大類古墳群」に属する古墳が幾つもあります。
「大類31号墳」は畑の中にある径16mの円墳ですが、見た目は前方後円墳に出見えます。出土した円筒埴輪が毛呂山町歴史民俗資料館に展示されています。
大類グランドの辺りが「苦林宿跡(堂山下遺跡)」です。すぐ側に越辺川の渡河点があったそうです。苦林宿と対岸の今宿は結構離れているので、渡河点が変更になったのかもしれません。遺跡からは鎌倉時代から室町時代の集落跡と土釜や内耳鍋などの在地産の器、外国から伝来した陶磁器などが見つかっているそうです。
大類グランド横から始まる未舗装の林の中の小道が「鎌倉街道跡」です。古代の道がこれだけまとまってきれいな状態で残っていることは珍しく、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれています。
鎌倉街道の古道を出たところにある「大類館」は地元の集会場で、歴史的な遺産ではありません。「毛呂山町歴史民族資料館」は、鎌倉街道や周辺の遺跡の出土品などが展示してある資料館です。その先には「大類の万葉歌碑」もあります。刻まれている歌は大家の万葉歌碑と同じ「入間道のおほやが原のいはゐ蔓 引かばぬるぬる吾にな絶えそね」で、「読売歌壇 十余首入選を喜びて建立 新井安雄 還暦を迎えての幸せ」との記述があることから、新井氏という地元の方が私的に建立したもののようです。
再び鎌倉街道跡の道に戻ります。掘割の切り通しの道が残っていて「鎌倉街道遺跡」に指定されています。入口しか伐採されていないため通り抜けはできません。
「葛川」の先に「市場神社」があります。当地の元名主で、鎌倉から三島様の神体を携えて当地に移住した山崎家が祀ったと神社で、江戸期には市場村の鎮守として祀られ、明治40年に地内の村社大利神社、山王大神社、山神社、愛宕神社、森戸字台の村社稲荷神社、森戸字市場の神明神社を合祀して市場神社と改称しています。市場という地名は、古くから九のつく日に市が開かれていたことに由来するそうです。
最後に森戸橋で高麗川を渡ると、対岸に東京国際大学のグランドがあり、その先が「西大家駅」なのですが、今日も「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に寄って行くので、横の道に折れます。
温泉へ向かう途中に「鶴明神社」と「西光寺」があります。鶴明神社は田んぼに鶴が沢山飛んでくることからここに鶴の神が鎮まっているのではないかということから祀られた神社だそうです。真名鶴霊という鶴の神様と伊佐波登美神を祭神としています。
鶴明神社の上にある「大林山 西光寺」は、越生龍穏寺の末の曹洞宗寺院で、鶴明神社の元別当を務めていました。創建は、界安是法居士(慶長8年(1603)卒)が開基となり、龍穏寺二十二世大覺佛海禅師(寛文4年(1664)寂)が開山したそうです。
東武越生線の線路を渡ると「中新田神明社」があります。浅羽城主末裔で中新田村を開発した高篠庄兵衛が村の鎮守として慶安2年(1649)に勧請した神社だそうです。浅羽氏も同じく児玉党で、入西三太夫資行の子小太郎行成(行業)が浅羽に住して浅羽氏を名乗ったのに始まります。
「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に着きました。天然温泉なのに料金はコロナ後の料金改定後でも平日750円、土日850円です。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉です。今日は温泉のレストランで「ロウリュウラーメン」840円という上にキャベツが乗っている辛いラーメンを食べました。思っていた以上に激辛で、夏の暑さが吹き飛びます。
今日も「一本松駅」から東武越生線で帰ります。
今日のスタートは「武蔵嵐山駅」駅です。ここから先週の終点「西大家駅」を目指して南に向かいます。逆コースにしたのは、途中の笛吹峠を暑くなってから登るのはさすがにしんどいため。嵐山の名前は大平山の下の槻川が蛇行しているあたりが、京都の嵐山に似てたからつけられたそうです。
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「菅谷公園」は菅谷神社の元境内地でした。池の中の島にある厳島神社は、江戸時代に領主であった猪子佐太夫が自分の崇敬する尾張国(現愛知県)津島町に鎮座する津島牛頭天王社の分霊を祀ったものだそうです。
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KYOCERA KYF33
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「菅谷神社」は、畠山重忠が菅谷館を建てた建久元年(1190)に守護神として日吉大社を勧請した神社だそうで、昔は山王社と呼ばれていました。重忠死後は菅谷村の鎮守として祀られ、明治維新後の社格制定に際して日枝神社と改称し、村社となったそうです。
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「菅谷館跡」に着きました。土塁や堀が復元された広い公園になっています。
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まず、水の溜まった堀の跡があります。菅谷館跡には遺構が良好な形で残されており、保存状態が極めて良いため、昭和48年に国指定史跡に指定されました。平成20年3月には他の比企丘陵の城と共に新たに国の史跡に指定され、名称が「比企城館跡群菅谷館跡」に変更になっています。
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堀の先には広場になった二の郭跡があります。
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二の郭跡の向かい側に菅谷館跡の石柱と解説板があります。
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土塁の一部の少し小高い場所にある正装した畠山重忠像です。
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それらの奧に広い本丸跡の平坦地があります。
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本丸跡は高い土塁と堀で囲まれています。
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菅谷館は畠山重忠亡き後も、戦国時代に山内上杉家の家臣である「太田資康(太田道灌の息子)」や北条氏の属将である「小泉掃部介」の城としても使われ、現在残る立派な土塁や堀などの遺構は、後世に造られたものとされています。「関東管領 上杉顕定居城 菅谷城」の幟があったので、ここでは部下ではなく関東管領本人が住んでいたということになっているのようです。
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「学校橋」で都幾川を渡ります。右手の河岸段丘の森が菅谷館跡で、対岸にある長い桜並木は桜の名所として名高い「都幾川桜堤」です。川の奧に見える半分平らになった山は武蔵嵐山の名前の元となった大平山です。
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「大福山 無量院 向徳寺」は、清阿(宝治2年(1248)寂)が開山した時宗寺院です。善光寺式阿弥陀三尊像と呼ばれる型式で造られた「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像の三尊像」が国重要文化財になっており、中尊の台座反花には、「武州小代奉治鋳檀那父栄尊母西阿息西文宝治三己酉二月八日」と武蔵七党の児玉党一族の小代氏の本拠地であった小代(現東松山市正代)の地名が残されています。
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「向徳寺板碑」は鎌倉・南北期・室町時代のもので、全部で28基あり、嵐山町の指定文化財となっています。
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「大蔵神社」に着きました。創建は、源義賢が天養元年(1144)に勧請したとも、また応永元年(1394)に草創されていた天台宗安養寺が比叡山延暦寺の守護である山王日吉神社(日吉大社)を勧請したとも伝えられており、かつては山王社と称していたそうです。明治時代に村社となり、地内の諸社を合祀して大蔵神社と改称しています。
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境内の隅に建つ「大蔵館跡」の石柱です。「大蔵神社」は、源義賢が兄・義朝の息子の源義平(悪源太)に打たれた「大蔵館跡」があった場所といわれています。
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「大蔵館跡」の説明板です。
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大蔵神社境内を囲むように、大蔵館の物といわれる土塁が残っています。
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土塁の上には富士塚のような感じで仙元大日神の石碑が置かれています。
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KYOCERA KYF33
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「源義賢の墓」入口に着きました。手前の草むらは前に来たときは畑だったのですが、耕作放棄地になってしまったようです。でも道はしっかり草刈りがされていました。義賢の息子が都から追い出した「木曽義仲」です。
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「源義賢の墓」です。覆屋の中に義賢ゆかりの人々が供養のために建立したといわれる五輪塔があります。源義賢は六条判官源為義の次男で、近衛院の春宮の帯刀の長を務めたことから帯刀先生と称していました。当初は上野国平井を本拠地としており、群馬に館跡が残っているますが、秩父重隆の養子となって仁平3年(1153)にこの地に移り住み、上野・武蔵両国にまたがり勢力を伸長させました。
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「源義賢の墓」といわれる五輪塔は、火災でやや赤く変色して三輪塔になってしまっていますが、大正13年に県指定史跡に指定されています。義賢は、南関東を勢力基盤としていた兄・義朝と衝突することとなり、義朝の長子の「源義平」によって、この大蔵の地で久寿2年(1155)8月16日に養父と共に滅ぼされました(※群馬に逃げ帰る途中で殺されたという説もあり)。
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源義賢の墓の横にも「浅間大神」の石碑があります。
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源義賢の墓の前には、昔は無かった「大行院神明殿」が造った源氏一族を祀る墓所があります。板碑がたくさん並んでいるのですが、これは史跡ではありません。
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「大乗山 寂光院 安養寺」は、大蔵神社の別当寺であった天台宗寺院で、廣覺が応永元年(1394)に草創しています。天保10年(1839)造営の山門は、嵐山町考古資料に指定されているそうです。
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「大行院神明殿」は神社と寺が一体化した新興宗教のような寺院で、「大蔵村義仲神社」なるものを建て、義仲のみならず源氏の全ての武将の石碑を建てて奉っています。
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「縁切橋」には、坂上田村麻呂が岩殿(現岩殿観音)に住んでいる悪龍退治のための準備に大忙しの時に、京都から陣中見舞いにやってきた奥方を「天皇の命により征夷大将軍としてこの地に派遣されている私に、妻が訪ねて来るとは何事だ」と離縁してしまったという伝承が残っています。縁起が悪いため婚礼時には渡らない習慣があったそうです。
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在の縁切橋です。水がほとんど流れていない水路跡にかかる橋桁がわずかに残っているだけです。
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縁切橋の上流の将軍沢という場所にある「将軍沢日吉神社」に着きました。ここにも坂上田村麻呂が東征に来ていた延喜10年(910)に天台宗の「明光寺」を建立し、その鎮守として山王社を創建したという伝承が残っています。
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現在の中心となる「将軍沢日吉神社」です。明治維新後、大宮権現社(現将軍神社)を初め、地域にあった神明社、愛宕社、稲荷社はこの日吉神社に合祀されています。
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将軍沢の地名の由来は、村内の字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社(現将軍神社)があることに由来するといわれています。「将軍神社」は本殿に合祀されたわけではなく、社務所の横に独立した社を構えています。
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『風土記稿』よれば大宮権現社はかつて藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚(将軍塚)」の上にあったそうで、その塚の記念碑が名前を坂ノ上田村麿に変えて神社の入口に建てられています。
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将軍沢日吉神社の少し先の集落から「笛吹峠」方面の眺めです。見える山は比企丘陵で、鎌倉街道上道は笛吹峠でこれを越えていました。
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将軍沢日吉神社の別当であった「竪横山 醫王院 明光寺」に着きました。坂上田村麻呂が最初に一堂を建て、それを守護するために造られた寺院とも言われています。そのお堂は元弘・延元のころに兵火にかかって焼失したそうで、将軍神社や日吉神社とは別のようです。
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「明光寺」には、嵐山町最古の鎌倉期の文応元年(1260)に造られた阿弥陀三尊種子板石塔婆が残っており、これは13世紀半ば頃から当地を領有していた世良田氏と関係があるのではないかと言われていて、寺は世良田氏の館の跡ではないかという説があり「八反田遺跡」と呼ばれているそうです。世良田氏は、上野国新田四分家の一つで、新田の遺領であった当地を継いで当地を領有することとなったということです。
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笛吹峠に向かう山道に入りました。見た目は林道ですが、嵐山町と鳩山町をつなぐ幹線道路のため、結構交通量が多く、気候が良ければサイクリングで越える自転車もいます。
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「笛吹峠」80mに着きました。トイレと東屋があります。鎌倉時代には畠山重忠を始めとする数多くの武士が行き来していており、北麓に残る坂ノ上田村麿の伝承から、鎌倉街道が通る遙か前から峠として使われていたといわれています。また鎌倉街道とは別に岩殿観音から慈光寺へ続く「巡礼街道」という東西の道も通っています。
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「笛吹峠」の標識です。正平7年・文和元年(1352)閏2月28日に行われた「笛吹峠の戦い」は、新田義貞の義貞の三男の「新田義宗」が「宗良親王」を奉じて「足利尊氏」の軍勢と戦った「武蔵野合戦」の最後の戦いで、この戦い敗れた義宗は越後国に、親王は信濃国に落ちのび、関東の南北朝時代が完全に終わります。
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それから「史跡笛吹峠」の石碑です。笛吹峠の名称の由来は笛吹峠の戦いの最中に、月明かりに誘われて宗良親王が笛を吹いたという伝承から来ているそうです。
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笛吹峠には古墳もあります。道の反対側にある「峠の平1号墳」(径9.5m、高さ2.5mの円墳)です。他に「〃2号墳」(径15m、高さ3.5mの円墳)もあります。
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笛吹峠でひと休みしたら南の鳩山町側に下ります。山の中から出ると眼下に峠に続く谷戸に広がる広大な水田地帯が見えてきます。
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下りきったところにある猿田彦大神と馬頭観音の石碑です。
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猿田彦大神のところから、笛吹峠方面を振り返ります。
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相変わらず交通量が多いので、しばらく田んぼの中のショートカットルートを行きます。
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「羽黒堂」は、南側の笛吹峠の登り口にある小さな地蔵堂で、名前の由来は「坂上田村麻呂が大蛇を追いかけたが当地周辺で大蛇を見失った(はぐれた)」、「戦の行軍ではぐれて討たれた士卒を埋めたから」、「羽黒山のある出羽国出身の人を葬ったから」、また「お歯黒の(高貴な)大将の首を首を埋めたから」など諸説あるそうです。かつてこの周辺には「十一人塚」という複数の塚があったそうです。
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山に近くて標高に多少高いせいか、稲が若干色づいていました。この辺りでは8月後半には稲刈りが始まるのでしょうか。
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「大橋交差点」が近づいてくると、左右に上が平らな丘が見えて来ます。このどちらかに「大橋御所」と呼ばれる「笛吹峠の戦い」で「新田義宗」が「宗良親王」のために築いた本陣があったといわれています。義宗と宗良親王の軍は、笛吹峠を背に「御所谷」と呼ばれるこの地にこの地に本陣を置き、少し南の丘の上にある「鳩山町役場」を挟む形で「竹之城」と「旗山」を第2陣として敵の攻撃に備えたそうです。
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「大橋御所」候補地のもうひとつの丘です。新田義貞没後に兵を挙げた貞の子義宗と義興は、後醍醐天皇の皇子宗良親王を擁して鎌倉街道を連戦連勝で南下し、一時は鎌倉を占拠するまで行きましたが、足利尊氏が鎮圧に乗り出すと徐々に劣勢になり、ついに笛吹き峠での最後の戦いにも破れ、新田義宗は越後へ、宗良親王は信濃へ落ち延びることとなります。
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大橋交差点の手前にある「鎌倉街道上道案内板」に着きました。笛吹峠越えの鎌倉街道上道のランドマークとなっている場所です。
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「大橋交差点」に着きました。前の川が大橋川ですが、かかる橋はなぜか「新橋」です。ここから徐々に鳩山町の市街地に入っていきます。
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大橋交差点のすぐ脇にある「大橋バスターミナル」です。鳩山町は鉄道がないため、バス路線が発達していて、ここから川越交通バスか鳩山町営バスで、高坂、坂戸、越生、いずれかの駅に出ることができます。どこでも良ければ1時間に1本以上の便があります。笛吹峠だけ越えたい人はこのバス停を使うと便利です。
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「泉井山 金澤寺」は、建保6年(1218)に僧正達によって開基創建された寺院で、創建当時はときがわ町慈光寺の末寺の天台宗寺院でしたが、その後衰退し、越生町の龍隠寺の16世梅叟高和尚を招き永禄12年(1570)に曹洞宗寺院として中興され、江戸時代の慶安2年(1649)に8石5斗の御朱印を觀音堂領に賜わっています。南北朝時代末期の嘉慶2年(1388)に造立された十三仏板碑が鳩山町有形文化財に指定されています。
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観音像とサルスベリの花です。金澤寺にはサルスベリの木が多く、夏向きのお寺です。
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金澤寺の前を流れる「泉井川」を渡ります。奥にうっすらと奥武蔵の山が見えます。
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続いてこの辺りの川の本流である「鳩川」も渡ります。
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鳩川の河岸段丘上の高台が「旗山」と呼ばれる南朝側が旗を掲げた場所です。鳩山町の名前の由来はこの旗山からきているそうです。
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旗山にある鳩山町役場に着きました。役場の上には「臺の屋敷跡」という、児玉党・越生氏が越生町に移る前の初期に構えた居館の跡もありますが、遺構も何もないので今日は行きません。
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役場から下り、しばし鎌倉街道から離れて、大橋川と合流した鳩川を「竹之城橋」で渡ります。橋の左手の田んぼを家庭菜園に変えたあたりが「竹之城跡」です。この辺り一番の低地で城や砦を造るような場所ではないのですが、発掘調査により建物の跡が発見され「竹之城遺跡」という名前もついています。「竹之城跡」は先ほどの「大橋御所」の支城といわれていますが、ハッキリとした確証はないようです。
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しばらく「鳩川」沿いを進みます。
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今週もヤギがいました。
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鳩川の東側に「赤沼氷川神社」という行ったことのない神社があるので行ってみます。ここは圓正寺と同じく「上杉安房守憲方」が至徳元年(1384)に創建と伝わる神社で、長らく赤沼の鎮守として祀られ、維新後には村社となっています。
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「おしゃもじ山」は鳩山町の市街地を見下ろすようにそびえ立つ小山で、今日は暑いしので登りませんが、中世の物見用の砦の跡ともいわれており、中世の墓や大量の板碑が発見されています。また、江戸時代に旗本の内藤正勝がこの山に陣屋を構えたことが史実として残っています。おしゃもじ山の名前の由来は、「杓子母神(おしゃもじ様)」が祀られている祠があることからきていて、地元では子育ての神様として親しまれきました。
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鳩川の支流である内川を渡ります。
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「寶陀山 圓正寺」は、関東管領上杉氏が開基になった伝えられる円接禅寺の跡地の東側に大震須高(寛永8年(1631)寂)が創建したと伝えられる曹洞宗寺院で、応安4年(1371)の銅製雲板や大小5枚の青石塔婆などの歴史的な遺物がたくさん残っています。
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「今宿八坂神社」は、様々な疫病が流行した今宿の退散を祈って、寛文3年(1663)に京都の八坂神社から勧請された神社です。今宿の地では長らく「熊野社」が地域の鎮守として祀られていたのですが、明治に入って八坂神社が熊野社に代わって村社になったそうです。今宿は、鎌倉街道上道の宿場町で、越辺川対岸の苦林宿(古宿)の新興地ということで今宿と名付けられたそうです。
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「今川橋」でこの辺り一番の大河である「越辺川」を渡ります。
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橋の上から見た奥武蔵の山々です。朝、霞がかかってよく見えなかなった山がよく見えるようになってきました。
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「寶蔵山 専念寺」は創建年代不明の真言宗智山派寺院です。江戸期には境内に村鎮守の鹿島社を擁していました。
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ここで鎌倉街道は南へ直進なのですが、重要な史跡がたくさんあるので、専念寺のすぐ近所の「古戦場橋」を渡って、鎌倉街道を離れて「苦林野古戦場跡」方面に向かいます。この橋は朝の縁切橋と同じようなほとんど橋の形状を残していない名前だけの橋です。
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この草ぼうぼうなのが、「塚原3号墳」なのだと思われます。手前の塚原1、2号墳は真夏の林の藪の中なので確認出来ず。
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「苦林野古戦場跡」は「大類1号墳(苦林野古墳)」の上に石碑と解説板があります。貞治2年(1363)に初代鎌倉公方・足利基氏と前越後国守護・芳賀入道禅可(高名)の軍勢による戦いが行われ、基氏軍が勝利したものの、あまりの激戦で多数の戦死者が出たため、後世、石碑が建てられたのだそうです。
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苦林野古戦場跡の石碑です。戦いの原因は、足利尊氏の子である足利基氏が鎌倉府長官の鎌倉公方となり、補佐役の関東管領に上杉憲顕を起用して、下野の宇都宮氏綱から越後守護職を剥奪し憲顕に与えたことです。これに腹を立てた氏綱の重臣・芳賀禅可が鎌倉へ出仕する上杉憲顕の襲撃を企て、その動きを察知した基氏の軍勢3,000と芳賀の軍勢が800が相見えたのが「苦林野の戦い」です。
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苦林野古戦場跡の解説板には、古戦場の説明の他、古墳の説明も書かれています。
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「大類1号墳(苦林野古墳)」は前方後円墳なので、奥の方の方には江戸時代に建てられた千手観音があります。庚申塔の青面金剛ではありません。詳しくは解説板を。
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「平山(平田)氏陣屋跡」は、東京の多摩地区で勢力を持っていた西党の平山氏の一族の「平山善九郎の館」があったとされる場所で、今も子孫の平田氏が住んでいて会社を営んでいます。平山氏は住んではおらず、地元の有力者の平田氏に管理を委任していただけともいわれています。
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平山氏陣屋跡のすぐ北側にある「入西神社」は、元は氷川神社で、明治の神社合併で近所の神社を合祀した際に、地名から入西神社とつけられた神社なのですが、入西という地名が、この辺りにちらばる児玉党系諸氏の祖である児玉党の本宗家2代目の児玉太夫弘行の次男・有道(入西)資行の名前と一緒のため、「入西氏館跡」ではないかといわれています。
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「入西神社」の境内には土塁が残っています。有道(入西)資行の4人の子供は、入西行業(浅羽氏の祖)、遠弘(小代氏祖)、有行(越生氏祖)、有道(入西)基行(真下氏の祖)で、皆、越辺川~高麗川流域に領地を持ちますが、真下氏のみ本庄市周辺に留まっています。
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「龍光寺」は創建年代も山号も不明な無住の真言宗智山派寺院なのですが、隆圓(享保9年(1724)寂)が中興し、江戸期には小山氷川社(現入西神社)の別当を勤めていたそうです。
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「大龍山 善応寺」は、広澤善応を開基とし、入道無窓國師(1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)寂)を勧請開山として文和年間(1352~56)中に創建したと伝えられる寺院で、最初の宗派は明らかではありませんが、承応2年(1653)に多和目永源寺第4世本秋によって曹洞宗に改めて中興開山しています。今は普通の家のようになっています。
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「大龍山 善応寺」の裏と東側には「善応寺塁」があります。戦国時代に北条氏の家臣布施弾正左衛門康則の所領だったため、その関係のものとも、足利基氏が入間川御陣にて戦闘の指揮をとっていた時代か、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った時代に構えられた陣城ではないかといわれています。善応寺開基の広沢氏が地元の土豪でその館という説もあり、広沢氏の子孫はまだ近隣に住んでいるそうです。
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少し離れたとこるに「善応寺館跡」も同じようなものなのですが、こちらは天満宮の祠の裏に巨大な土塁が残っています。2つを併せて「中西城」という呼び名もあるそうです。
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玉林寺公会堂のある周辺の広い一帯が「大類氏館跡」です。「大類氏」も児玉党一族で、始祖・遠峯から五代目・行綱の次男行義がこの地に進出してきて大類氏を名乗ったのが始まりとされます。行義から四代目の子孫の行光は、足利尊氏と対立した足利直義の軍勢に加わったため、静岡県の薩埵峠の戦いで討ち死にしたと伝えられています。鎌倉街道上道の苦林宿周辺を長い間支配下においていました。
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大類氏館跡は、十社神社との間の畑に土塁や堀の跡が複数残っています。これはその1つです。
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ノカンゾウが咲いていました。ヤブカンゾウとは違って八重でないのが特徴です。
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夏野菜の無人販売所がありました。
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「十社神社」に到着しました。苦林野合戦で足利基氏方の戦死した武将金井新左衛門ほか9名の英霊を祀った神社といわれています。
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「十社神社」の参道や前の畑にも土塁の跡のような物があります。
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「十社神社」は広い鎮守の森を持っており、その中には「大類古墳群」に属する古墳が幾つもあります。古墳と繋がった土塁の跡も残っています。
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無住の養蚕住宅を発見しました。この辺りもかつては養蚕が盛んだったのだと思われます。
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「大類31号墳」は畑の中にある径16mの円墳ですが、見た目は前方公円墳に出見えます。出土した円筒埴輪が毛呂山町歴史民俗資料館に展示されています。
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大類グランドの辺りが「苦林宿跡(堂山下遺跡)」です。すぐ側に越辺川の渡河点があったそうです。苦林宿と対岸の今宿は結構離れているので、渡河点が変更になったのかもしれません。遺跡からは鎌倉時代から室町時代の集落跡と土釜や内耳鍋などの在地産の器、外国から伝来した陶磁器などが見つかっているそうです。
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大類グランド横から始まる未舗装の林の中の小道が「鎌倉街道跡」です。古代の道がこれだけまとまってきれいな状態で残っていることは珍しく、文化庁の「歴史の道百選」に選ばれています。
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「鎌倉街道跡」にはこのような幟がたくさん立っています。
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「鎌倉街道跡」を少し奥まで進むと、道の両側に堀割の跡が出てきます。
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林の中の道を抜け、東に直角に曲がると「大類館」があります。しかしここは地元の集会場で、歴史的な遺産ではありません。
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その南側には「毛呂山町歴史民族資料館」があり、資料館に鎌倉街道や周辺の遺跡の出土品などが展示してあります。
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毛呂山町歴史民族資料館の敷地内には「西戸2号墳」があります。
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「大類の万葉歌碑」です。刻まれている歌は大家の万葉歌碑と同じ「入間道のおほやが原のいはゐ蔓 引かばぬるぬる吾にな絶えそね」で、「読売歌壇 十余首入選を喜びて建立 新井安雄 還暦を迎えての幸せ」との記述があることから、新井氏という地元の方が私的に建立したもののようです。
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再び鎌倉街道の跡の道に戻ります。
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鎌倉街道上道は再び林の中に入っていきます。
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林を出ると、最後に掘割の切り通しのような道が残っていて、「鎌倉街道遺跡」に指定されています。入口しか雑草が伐採されていないので、奥へは進めません。
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鎌倉街道遺跡の先で鎌倉街道を離れて高麗川の支流である「葛川」を渡ります。
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その先にある「市場神社」は、当地の元名主で、鎌倉から三島様の神体を携えて当地に移住した山崎家が祀ったと神社で、江戸期には市場村の鎮守として祀られ、明治40年に地内の村社大利神社、山王大神社、山神社、愛宕神社、森戸字台の村社稲荷神社、森戸字市場の神明神社を合祀して市場神社と改称しています。しかし村社にはなっていないようです。市場という地名は、古くから九のつく日に市が開かれていたことに由来するそうです。
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市場神社から田んぼの中を南へ続く細道も鎌倉街道の延長のような気がしますがなんともいえません。
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そして森戸橋で高麗川を渡ります。対岸には先週も来た東京国際大学のグランドがあり、その横を抜ければ「西大家駅」なのですが、今日も「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に寄って行くので、横の道に折れます。
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田んぼの中に吉原地蔵尊という、何か伝承がありそうなお地蔵様がありました。でもよくわからず。
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高麗川の河岸段丘の下と上に建つ「鶴明神社」と「西光寺」が見えてきました。
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河岸段丘の下にある「鶴明神社」です。ここは田んぼに鶴が沢山飛んでくることからここに鶴の神が鎮まっているのではないかということで祀られた神社だそうです。真名鶴霊という鶴の神様と伊佐波登美神を祭神としています。
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鶴明神社の裏には青梅の御岳山の御岳神社の大真口神を祀った石祠がありました。埼玉も青梅の御岳講が多いので、その一つだと思われます。
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河岸段丘上にある「大林山 西光寺」は、越生龍穏寺の末の曹洞宗寺院で、鶴明神社の元別当を務めていました。創建は、界安是法居士(慶長8年(1603)卒)が開基となり、龍穏寺二十二世大覺佛海禅師(寛文4年(1664)寂)が開山したそうです。
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東武越生線の線路の向こう側に見えるのが「中新田神明社」の鎮守の森です。
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「中新田神明社」です。浅羽城主末裔で中新田村を開発した高篠庄兵衛が村の鎮守として慶安2年(1649)に勧請した神社だそうです。浅羽氏も同じく児玉党で、入西三太夫資行の子小太郎行成(行業)が浅羽に住して浅羽氏を名乗ったのに始まります。
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「野天風呂蔵の湯 鶴ヶ島店」に着きました。天然温泉なのに料金はコロナ後の料金改定後でも平日750円、土日850円です。泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉なのですが、無色透明で塩気もなく温泉感は薄いです。でも高濃度炭酸線とドライとミスト両方のサウナがあります。
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今日は温泉に着くのが若干遅くて外の店のランチ営業時間を外れてしまうため、昼飯は温泉のレストランで食べることにしました。温泉メニューっぽい名前の「ロウリュウラーメン」840円という上にキャベツが乗っている辛いラーメンを注文しました。思っていた以上に激辛で、夏の暑さが吹き飛びます。
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今日も「一本松駅」から東武越生線で帰ります。
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