国籍も名前も不明......。クライマー‶K〟を描く山岳マンガを登山家・竹内洋岳氏がひもとく

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

1986年に原作・遠﨑史朗、作画・谷口ジローの布陣で連載が始まった山岳マンガ『K』。2021年に山と溪谷社から『ヤマケイ文庫 K』として復刻された。復刻版には8000m峰14座全山登頂を日本人で初めて成し遂げたプロ登山家・竹内洋岳氏による特別寄稿と、山岳漫画評論の第一人者であるGAMO氏の文庫解説が収録される。今回は竹内氏による特別寄稿を一部公開。竹内氏が通ったヒマラヤの景色を交えて、『K』の世界をひもといていく―。

特別寄稿=竹内洋岳

特別寄稿
‶K〟という未知の存在

『K』には、懐かしい「におい」が立ち込めている。私がヒマラヤに通い始めたのは1991年。『K』が描かれた数年後のことだ。

当時のヒマラヤにはにおいがあった。ヤクの糞を乾燥させた燃料が燃えるにおい、ふるまわれたバター茶のにおい、パキスタンで使われるヤギ油「ギー」のにおい……。ヤク糞の燃料は、沸かしたお湯にまでそのにおいが移る。お茶を飲んだり顔を洗ったりすると、口の中に、顔の周りにたちまちそのにおいが広がった。ヤギ油「ギー」はにおいだけで胃の中までギーの味が満ちてくる。だがどれも決して不快ではなく、異国の地で好奇心を搔き立てるトリガーだった。

ネパールやチベット、パキスタンの人たちの服装や生活様式、バザールの喧騒。

この本に描かれている風景は、当時私が見たヒマラヤの姿そのままである。1990年代以降、ヒマラヤやチベットの文化・生活は大きく変わった。今の姿のみを知る人が読むと、このマンガはさながら時代劇かもしれない。だが、30年前に確かに存在した風景がここにはある。谷口ジローさんが描く緻密な絵が記憶を呼び起こし、ページをめくる度にそんなにおいが漂ってくるのだ。

登山用具もまた同様だ。双葉社版の表紙絵で、Kは「ユマール」という登高器を使用している。フィックスロープにセットし、上には上がるが下にはずれない仕組みを使ってロープを登っていく登高器は、今でこそ各メーカーが最新技術を用いた様々な商品を出しているが、当時は、このユマールがその代名詞で、ロープを登ることを指す「ユマーリング」の語源にもなった。今では、あまり見られない、ウッドシャフトのピッケル、革靴にバンド式アイゼンの組み合わせも、私もギリギリ経験している。

双葉社版の表紙(上)と、描かれたユマール(下)

ヒマラヤに住む人々も、生活環境や価値観も、そこに通う私たちも、使われる道具も、止まることなく変化していく。1990年代からヒマラヤに通ってきた私は、『K』から現在にいたるヒマラヤと登山の変化の過程を見られる恵まれた時代を過ごしたのだと思う。『K』に描かれた景色は、私のヒマラヤの記憶の原点だ。

一方で、変わることのない山の姿がある。K2も、プモ・リも、エベレストも、マカルーも、カイラスも、山の姿だけが変わることなく存在し、今この瞬間も同じようにそびえているに違いない。当時の作者にそんな意識はなかっただろう。だが今読み返すと、またたく間に流れる時間と、変わることない雄然たる山の存在の対比を強く感じさせる。

この『K』は「山岳マンガ」と呼ばれるジャンルに属する。だが、テーマは一般的な山岳マンガとは違う、ヒマラヤでの「救助」という特殊な世界だ。

こんなシーンがある。

エベレスト南西壁へ遭難遺体の回収に向かうKは、多数のボルトを打ち込み、アブミ(簡易はしご)をかけていく。その様子を見たものが言う。

「なんだあれは」「あんなのはクライマーのやることじゃない。岩場職人か石切り職人のやることだ」(163ページ)

©PAPIER/谷口ジロー
©PAPIER/谷口ジロー
©PAPIER/谷口ジロー
©PAPIER/谷口ジロー
©PAPIER/谷口ジロー
©PAPIER/谷口ジロー

当時、日本の登山界では岩にボルトを埋め込む行為の是非が議論されていた。作者もそれを知っていたのではないか。実際に作者がどんな思いを込めてこのシーンを描いたのかは想像するほかない。だが私には、「これは登山を描いたのではない」という作者のアンチテーゼが込められていると思えてならない。これはクライミングでも登山でもなく、物語のなかだけに存在する超人的なKの物語なのだという宣言だ。

高所での救助は極めて特殊な世界だ。街中での事故と違い、ヒマラヤの高所での遭難は「助からない」のが前提で、最適解として仲間を見捨てることもある。それでも、本来助からないという前提のもと、命を賭して救助に向かうもの、助けられるものがいる。そこには様々な葛藤が渦巻く。

評者

竹内洋岳(たけうち・ひろたか)

1971年、東京都生まれ。プロ登山家。ハニーコミュニ―ケーションズ所属。日本人で唯一、世界に14座ある8000m峰すべてに登頂。1990年代から足しげくヒマラヤ山脈に通い、高所登山を実践してきた。2012年に「植村直己冒険賞」、「2013年には文部科学大臣顕彰スポーツ功労者顕彰」を受賞。

ドキュメント生還2 長期遭難からの脱出

ヤマケイ文庫 K

1986年に月刊「リイドコミック」で連載が開始され、1988年にリイド社より単行本化。その後「KAILAS」を追加して1993年に双葉社より再刊。本書はこの双葉社刊を底本とし、文庫化。本書には竹内洋岳さんが自らの高所救助体験を織り込んだ特別寄稿と、山岳マンガ研究家のGAMOさんによる解説をダブルで収録している。

谷口ジロー
遠﨑史朗
発行 山と溪谷社
価格 990円(税込)
Amazonで見る
楽天で見る

関連記事

関連記事

編集部おすすめ記事