大ヒキガエル、怪鳥、天狗……「江戸時代の川口浩」、遠州奥地・水窪を行く
江戸時代は寛政年間のこと。大火で消失した東本願寺の再建のために、浜松の齢松寺(れいしょうじ)から遠山郷へと用材を求めてやってきた僧たち一行は、山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミなど怪物たちと次々遭遇したという・・・。寛政10年(1798年)に発行された探検記『遠山奇談』の世界を訪ねて、現代の遠山郷をめざし旅は続く。
文・写真=宗像 充、イメージ写真提供=飯田市美術博物館
秋葉神社と山住神社
浜松を出発し、幻の里・京丸(きょうまる)を探索した齢松寺一行は、秋葉山の門前で宿泊する。そして、秋葉山の奥の院との間、150町(約16㎞)の尾根道をたどり、山住神社を経て水久保(水窪、みさくぼ)に至る。ここで一行は地元猟師の案内を得てさらに奥地に大木を求めて足を踏み入れる。
遠山谷へと続く秋葉街道の名前の由来にもなった秋葉山は、現在は秋葉神社として知られている。火伏の神として江戸時代ににぎわい、お伊勢参りのように、人々は秋葉山をめざした。ぼくの暮らす大鹿村でも、秋葉山に行った帰りに水窪の町で散財して旅費を使い果たした、なんて逸話が残っている。大正時代には芸者が20人いたという。信州国境の水窪の宿は川沿いの山間部に細長く続いている。ここから秋葉山も、尾根続きの山住神社も1日の行程だ。
山住神社はオオカミ信仰で知られる、いわゆるオオカミ神社だ。南の秋葉神社との間に奥の院があった。別の取材でこの秋葉街道を大鹿村から秋葉山、さらに海までたどる徒歩の旅を昨年5~6月にかけて行なった。かつての秋葉古道はこの尾根道と、天龍川との中間地点をトレースしていて、日当たりのいい道沿いに集落が発達している。近年の研究では、さらに古い道は齢松寺らがたどった安定した尾根筋だったことが指摘されている。
齢松寺の足跡
この尾根道は、現在は林道になっている。
京丸の里から歩いて切石まで戻り、車で秋葉神社から林道をたどって水窪まで半日の行程だ。柳田國男はこの本を「何処をどう通って遠山に入ったということも、部落や家の名なども一向に挙げていない」と一刀両断している。浜松から京丸までの足跡はトレースできた。その後はどうか。
一行は旧暦4月8日に浜松を出発している。西暦は約1月早いので5月中の旅で、実際、林道の中途に一行が休憩した賽の河原の案内看板が見られる。多分、以前来たことのある仲間から聞かされたのだろう、5~7月(西暦6~8月)におけるヒル・アブの襲撃の恐ろしさを『遠山奇談』は書き記すが、途中にあった森林公園の山小屋のノートを見ると「ヒルがいた」の記載が目立つ。実際ぼくも昨年6月に秋葉古道を歩いた際には、足が血だらけになった。
山霧が立ち込める中、一行が立ち寄り、顔色の悪い僧らと出会った奥の院は、明治時代の廃仏毀釈の影響もあって別の場所に移っている。付近に巨石があり、この一帯が修験道にも通じる巨石信仰のメッカだったことが推測できる。山住神社の巨木は一行も書き記し、現在も健在だ。
水窪川上流の不思議体験
さて一行は水窪で地元の名主の協力を得て物資を調達し、猟師吉兵衛の案内で滝や大岩が立ち並ぶ山王の荒を経て上流を探索する。ここで一行は大木の根元に真新しい金の幣を見たり、山中の無人小屋で宿泊時に9尺(約2m70cm)四方のヒキガエルを撃ち倒したり、翼が1丈(3m)にもなる大鳥(野ぶすま)に遭遇したり、大岩の上で3尺(90cm)の大鏡を発見したりと、次々に不思議体験をしている。さらに奥地では「山犬狼」の声を聞き、提燈木(ちょうちんぼく)という、枝々に提燈の火をともすと言われる木を見つける。
後日一行は都の人を連れて再度この一帯に分け入っている。この時は雷雨に襲われ、はぐれた岩吉が天狗に取り付かれて正気を失いつつも帰還するという体験を経ている。
これらの舞台となった地名で事前に道路地図で見つけられたのは、「山王峡」だった。行く途中に水窪民俗資料館があったので、職員の方が地図を引っ張り出してきて奇談の「諸玖須」(もろくす)の地名を山王峡の上流に見つけてくれた。今はダムになっている。
山王峡には今はやっていない宿泊施設があるだけで、そこを通り過ぎ、下流からダムの湖岸に向かう。雨の中石が落ちてきて路上に転がる道路は、路肩にガードレールもなく、斜面にしがみついて立つ家々を片目に過ぎ、ひやひやしながらやっと湖岸に立つ。湖岸の看板の絵地図を見ると、湖底に沈んだ家々とともに諸玖須の地名が見えた。
一行の宿泊時に、杣平五郎は岩の窪に水を入れ焼石を転がして風呂にしている。これは後にサンカと呼ばれる漂泊民の習俗でもあり、齢松寺が有能なガイドを得ていたことを物語る。現代の水窪に1軒の旅館は満室で、今は県境の西浦の宿でシャワーを浴びる。
加藤定義さんの検証
「はじめ読んだとき、どうして柳田國男が水窪をバカにするんだと思った」
柳田の見解は『遠山奇談』とともに南信濃村史に収められている。郷土資料館の方に教えられて翌日会った郷土史家の加藤定義さんは、柳田も足を運び、資料に目を通せば、まったくの作り話ではないとわかるはずだと首をひねる。
実際加藤さんは、水窪周辺の齢松寺一行の足跡を登場人物や地名とともに特定している。山仕事をしていたのもあって地名もわかる。
「年代も合致するし、旅程も正確」(加藤さん)
諸玖須はダムの湖底に沈んだ村だ。山住近江守や一行を支援した奥山平右衛門は実在の人物だ。奥山家の万次郎と柳田は東大法学部の同期でその後も親交があったことまで突き止めている。その上、今は神社となって大山祇神がご神体の山住神社は、奇談中は熊野権現とされ、神仏習合時の姿を忍ぶ歴史資料でもあるという。
不思議体験と仏教説話
最後に柳田が「類型のいくらもある、都會の住民の貧しい知識から、割り出したような知識で充ちて居る」と切り捨てる不思議体験について考えてみたい。
山中でオオカミの遠吠えを聞いても、当時は今と違って実在の動物だったし、オオカミ神社の山住神社近辺では珍しい話ではないだろう。では当時の都市住民が、大鳥やヒキガエルの化け物がいたとして、いったいオオカミと区別がついただろうか。むしろ山奥にはそういったものが本当にいるかもしれないと想像を逞しくしたかもしれない。盛って話をおもしろくした本は今でもある。だけど荒唐無稽すぎると逆にトンデモ本にされて柳田のように最初から信じられない。
たとえば、御幣や鏡は神道的だ。先祖崇拝や自然崇拝色の強い修験道の信仰の痕跡を山中で見れば、阿弥陀信仰で一神教的な側面も強い真宗門徒からすれば、異文化体験そのものだ。天狗伝承もまた修験と切り離せず、メンバーの岩吉の彷徨は慢心を戒めるものとして仏教説話的に解説される。突然現われるイヌワシやクマタカは初めての者には大きく見えただろう。3m近いヒキガエルの存在は疑問だけど、やり取りは詳細で、死体を検証したことになっている。一番なさそうなので臨場感は欠かせない。
盛った部分や作り話の部分があったにしても、根拠があってこそ信ぴょう性が高まる。『遠山奇談』が都市住民に受け、遠山の名を知らしめたことには理由がある。
プロフィール
宗像 充(むなかた・みつる)
ライター。1975年生まれ。大分県犬飼町出身、長野県大鹿村在住。高校、大学と山岳部で、大学時は沢登りから冬季クライミングまで国内各地の山を登る。大学時代の山の仲間と出した登山報告集「きりぎりす」が、編集者の目に止まり、登山雑誌で仕事をもらいルポを書くようになる。登山雑誌で南アルプスを通るリニア中央新幹線の取材で訪問したのがきっかけで、縁あって大鹿村に移住。田んぼをしながら執筆活動を続ける。近著に『絶滅してない! ぼくがまぼろしの動物を探す理由』(旬報社)など。
『遠山奇談』を歩く
山奥に分け入った僧たちを待ち受けていたのは、山男や3mの大ヒキガエル、ウワバミといった怪物だった・・・。寛政10年(1798年)に刊行された紀行文『遠山奇談』をたどる。