「先に山小屋に行く」と言って雪の雲取山で消えてしまったリーダー

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20年間、警視庁青梅警察署山岳救助隊を率いてきた著者が、実際に取り扱った遭難の実態と検証を綴る。安易な気持ちで奥多摩に登る登山者に警鐘を鳴らす書、ヤマケイ文庫『侮るな東京の山 新編奥多摩山岳救助隊日誌』から一部を紹介します。

文=金 邦夫

6年ぶりに母親のもとへ

あれから5年9カ月、私が救助隊員となって初めて手がけた山岳遭難ということもあり、Tさんの名前は忘れることができなかった。雲取山で発生するほかの捜索などの際も、Tさんの手掛かりも合わせて捜した。しかしTさんに関するなんの情報もなく今日まで来たのである。

そしていま、定期券でTさんの名前を確認し、忽然と目の前に姿を現したTさんの変わり果てた遺体と対面して、私は驚きというよりも、ある種の感動をおぼえた。「Tさん、こんなところに迷い込んできていたのか、ずっと捜していたんだぞ、一人で寒かったろう」と白い頭蓋骨に心の中で話しかけていた。

実況見分が終わってから、衣服の中に入っていた骨をすべて集めて、遺体収容袋の中に納め、遺留品はまとめて背負子に括りつけ現場を離れた。巻き道まで登り返し、雲取山荘を経由し日原に下山した。山岳救助隊本部に着いたときには、短い日はとっぷりと暮れていた。

小雲取山~雲取山の稜線
小雲取山~雲取山の稜線(写真= あし0316さんの登山記録より)

Tさんはなぜあんなところに迷い込んでしまったのだろう、私は後日、再び雲取山に登り巻き道を歩いてみた。奥多摩小屋から小雲取山までは二度ほど稜線を巻く巻き道がある。二度目の巻き道は野陣尾根に出て、富田新道を左に急登し小雲取山に到るものである。雲取山荘への巻き道は小雲取山のさらに先である。

Tさんは富田新道に突き当たった際、左の小雲取山に急登せず、奥多摩小屋の岡部さんが水場の巡視に行く踏み跡を雲取山荘に行く巻き道と勘違いし、真っすぐにそこへ踏み込んだのではないだろうか。はじめこそ踏み跡がしっかりしているが、すぐ不明瞭になる。急ぐあまりケモノ道を探し当て進むうち、小雲取出合尾根まで行く。明瞭なケモノ道が無尽についている。そして支尾根のケモノ道を下ったものだろうか。

暗くなりビバークとなれば、当然風の当たらないあの倒木の陰がいい。私がビバークをするとしてもあの場所を選んだと思う。しかしTさんの不運は、あの晩日本列島を大荒れにした大寒波が南下してきたことだろう。ツェルトも持たずのビバークは厳しい。おそらくTさんは凍死したものと思われるが、いつ息を引き取ったかはわからない。

遭難の原因を結果論から言えば、パーティの分裂にある。3人一緒に行動していたとすれば、おそらくこの遭難はなかっただろう。しかしその状況により、リーダーの判断は難しい。今回はリーダーの判断により、そのリーダーが遭難したのだから……。

Tさんの遺体(白骨死体ではあるが)は収容当日、青梅警察署において検視がなされた。「骨に外傷が認められず、死体現場の状態、当時の状況などを考えると、遭難し凍死したものと認められる」と医師の所見にはある。

Tさんは独身で都内に母親と二人で暮らしていた。母親はTさんが行方不明のため、東京を引き払い、いまは宮城県仙台市の長女のもとに身を寄せているという。

翌日Tさんの母親と、同行者であったMさん、Nさんらが来署して遺体を引き取っていったという。6年ぶりに変わり果てた息子と再会した、年老いた母親の気持ちは察するに余りある。それでも行方不明のままでは忍びない。母親は大変感謝して引き取っていったと刑事課員から聞いたとき、私もなにか大きな荷物をひとつ下ろしたようなホッとした気持ちになった。Tさんも愛する母親のもとに帰り、やすらかに眠ってほしいと願わずにはいられなかった。

侮るな東京の山

侮るな東京の山
新編奥多摩山岳救助隊日誌

奥多摩のリアルがここにある。 山岳救助隊を20年にわたって率いた著者が鳴らし続ける警鐘。

金 邦夫
発行 山と溪谷社
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侮るな東京の山 新編奥多摩山岳救助隊日誌

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