登山者の「ありがとう」と人の輪に支えられて
山を駆けた女性たちの軌跡をたどり、平成の30年間を振り返る貴重な記録。『彼女たちの山』(山と溪谷社)より一部を抜粋して紹介する。
文=柏 澄子
毎日の「ありがとう」に支えられて
どこからたどっても遠い山小屋、と表現されるのは、北アルプス北部にある朝日小屋だ。白馬岳から縦走すると、雪倉岳を越え水平道をたどる。蓮華温泉から登るには五輪尾根。山小屋の従業員が行き来するのは、地元富山県朝日町の北又からのイブリ尾根だ。急勾配の登山道を登ると夕日ヶ原にたどり着き、その先に朝日小屋がある。どのルートも、まる1日かかる長丁場。朝日岳を背後にした平坦地に、赤い三角屋根の朝日小屋がある。山小屋の扉を開けると、小柄ながら全身に元気が満ちあふれた笑顔の清水ゆかりが、受付に座っている。朝日小屋を所有するのは、朝日町の山岳自然保護団体・大蓮華山保勝会であり、清水は、平成13(2001)年に山小屋の管理を亡父・下澤三郎から引き継いだ。
朝日岳は清水が生まれ育った朝日町からもよく見え、初めて朝日岳に登ったのは、小学3年生のとき。下澤は、清水が高校1年生のときに朝日小屋の管理人を引き受けた。結婚するまでは夏休みになると、清水も山小屋を手伝った。
管理人になったのは42歳のとき。四人娘の長女は大学生だったが末っ子は小学6年生。山小屋が開く6月から10月上旬は、義母に預けた。清水自身は仕事に無我夢中だったが、末娘はさすがに寂しがったと清水は当時を振り返る。
富山県の阿曽原温泉小屋には佐々木泉という主人がいる。彼に、清水は山小屋の仕事を始めて間もないころ、「山小屋の仕事ほどすばらしいものはない」と言われた。「お客さんにありがとう、ありがとうって言われるんだ」と佐々木は続けた。世の中に「ありがとう」と言われる仕事はほかにもある。けれど清水は言う。
「腹の底から毎日言ってくれる。登山道整備をしてくれてありがとう。ご飯がおいしかった、ありがとう。お布団がふかふかだった、ありがとう」
そんな登山者たちの声が、この20年間の清水の支えだった。
朝日小屋は人の輪があたたかい。「AKB」もその一つ。Aは朝日小屋の頭文字。Kは草刈りもしくはキッチン。Bは部隊を意味する。登山道の草刈りが必要になれば草刈り部隊が結成され、朝日小屋に集まってくる。繁忙期に厨房の人手が足りなくなると、キッチン部隊の面々が登ってくる。決して近くない朝日小屋だが、誰もがそれをいとわない。
「恋の花咲く朝日小屋」というフレーズもある。清水が管理人になってから、朝日小屋の従業員やAKBなどの協力者たち、客の間で10組以上のカップルが誕生し、結婚した。清水がうまく世話を焼くのかと観察してみるが、そうでもない。もはや理由はなく、ただただこの朝日小屋という場が和やかであたたかいのだと思う。その中心にいるのが、清水だ。
清水はよく「目配り、気配り、心配り」という言葉を使う。山小屋のあらゆる仕事に、従業員同士の関係に、また登山者に目を配り、気を配り、心を配る。夕食や朝食にも清水の心配りが表われている。
「冷凍食品は色や形がきれいでも、疲れた体が受け付けないときもある。地元のみながいつもおいしく食べているもので疲れを回復させ、元気に山を歩いてほしい」とメニューを考える。
背中を見せられない悔しさ
女性ならではの苦労について尋ねると、「それは一つ。山岳遭難救助や登山道整備の現場で、私が背中を見せることができない」と言う。山小屋の仕事は、調理も掃除も補修作業もすべて、現場でしか教えられない側面がある。遭難救助や登山道整備の現場で、そのやり方も心意気も情熱も見せてあげられない、と少し悔しそうだ。けれど弱みを弱みで終わらせはしない。朝日岳方面遭難対策協議会の一員としてトレーニングに参加する。
「現場に関わる人たちとの信頼関係を築くことに力を注ぐ。遭難救助も登山道整備も、内容を理解してメンバーを送り出す。後方支援を通じて、みんなの士気を高める」
管理人の更新は4年ごと。その間、天候不順もあるが、晴れに恵まれる夏山シーズンの年もある。押しなべてみればトントンになると、小屋を引き継ぐ前に言われた。けれど、平成期後半はゲリラ豪雨や天候不順が多かった。「こんなことは、以前はなかった」と、遠のく客足や、登山道や山小屋の被害に清水は頭を悩ませる。
人手不足もここ数年の悩み。特に男性の働き手が少ない。「山小屋の仕事は危険が伴い、汚い仕事もしなければならない。従業員同士が24時間顔を突き合わせる。定時で仕事を終え、飲み屋で上司の愚痴を言うこともできない。いま流行りのバーチャル世界とは対極。けれど山小屋の仕事を意気に感じてくれる人の存在が、心の支えだ」と言う。
清水が「お客様に強く叱られたことが二度ある」と話してくれた。一度目は管理人になって数年目。二度目はそれから15年程経ってからだ。二度目のそれは、シーズン終盤に清水の疲れがピークに達していたころ、悪天によるキャンセルの電話の主に、雑な対応をしたようだ。その客から手紙が来た。清水の態度に触れ、「楽しみにしていた山小屋にもう行く気が失せた」と書いてあり、清水は肩を落とした。しかし、「初心を忘れずに思い直してがんばってほしい」と手紙は結ばれていた。SNSに書き込むことだって簡単な時代に、手書きだった。清水はすぐに電話をかけ、山から下りたのちには手紙を書いた。忘れられない出来事だった。「人に恵まれ、人に助けられてきた小屋番の仕事だ」と清水は言う。
※本記事は、『彼女たちの山 平成の時代、女性はどう山を登ったか』(山と溪谷社)を一部抜粋したものです。
この記事に登場する山
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プロフィール
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柏 澄子(かしわ・すみこ)
登山全般、世界各地の山岳地域のことをテーマにしたフリーランスライター。クライマーなど人物インタビューや野外医療、登山医学に関する記事を多数執筆。著書に『彼女たちの山』(山と溪谷社)。
(公社)日本山岳ガイド協会認定登山ガイド。
(写真=渡辺洋一)
彼女たちの山
平成の30年間(1989-2019)、登山の世界で女性がどのように活躍してきたか。 代表的な人物へのインタビューを中心に、平成の登山史を振り返る。 それぞれの人生に山がもたらしたものとは何か。
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