「すべては登山者の安全のために」。穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い

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2023年、創立100周年を迎えた穂高岳山荘。その初代主人である今田重太郎が山小屋づくりとともに情熱を注いだのが、道づくりである。『山と溪谷』2023年7月号の特集から、重太郎の「登山道」へのこだわりを振り返る記事を紹介しよう。

文=谷山宏典、写真=加戸昭太郎(重太郎新道)、写真提供=穂高岳山荘

穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い
1951(昭和26)年ごろ。重太郎新道建設当時の重太郎夫妻と紀美子(左の3人)

岳沢(だけさわ)から前穂高岳へと至る急峻な登山道は「重太郎(じゅうたろう)新道」と呼ばれている。重太郎とは、奥穂高岳と涸沢岳の鞍部である白出(しらだし)のコルに立つ穂高岳山荘の初代主人、今田重太郎のこと。もともと山案内人をしていた重太郎は、1923(大正12)年に穂高の稜線に山小屋建設を決意。翌々年(1925/大正14年)には本格的に穂高小屋(穂高岳山荘の前身)の営業を開始する。

穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い
1940年代半ばごろの穂高小屋

山小屋経営に情熱を注ぐ一方で、重太郎が執念とも言えるこだわりを見せたのが登山道だった。彼は山案内人時代から、自らの仕事場である槍・穂高連峰でルートの開拓や整備に努めていた。穂高小屋をつくってからは、小屋を中心として、北は大キレット、南は前穂から上高地までと、ジャンダルムを経て西穂まで、東は涸沢、西は白出沢を下って出合までを自分の受け持ち地域として考え、登山道の整備を行なった。

そのころの道は、山案内人が歩いた踏み跡をもとにつくられていた。ただ、案内人にしてみれば、踏み跡が登山道として整備されてしまっては自分たちの商売に影響する。そのため、登山道の目印として積み上げられたケルンを、通るたびに蹴とばして壊していったそうだ。しかし何度壊されても重太郎は諦めず、次々にケルンを建てていった。また、登山道は一度つくればそれで終わりではない。大雨や雪崩、積雪などによって道が崩れてしまうことは日常茶飯事で、毎年継続して手を入れなければならなかったのだ。

穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い
森林限界を越えると険しい岩稜帯が続く

そうした多大な苦労にもかかわらず重太郎が道づくりにこだわったのは、「道があってこそ人が来る」という山小屋経営者としての思惑はもちろんだが、それ以上に「登山者の安全のため」という気持ちを強く持っていたからだ。

その最たるものが、冒頭に挙げた重太郎新道である。

岳沢と前穂高岳の間には一枚岩と呼ばれる大きな岩があり、それまでは一枚岩を左に巻くようにルートが設けられていた。だが、その道はかなりの難所で、しかも何度直しても崩れてしまう悪場でもあったため、毎年のように登山者がスリップして沢に転落する事故が起こっていた。重太郎は「何とか新しい道を開拓できないか」と考え、1941(昭和16)年ごろから一枚岩を通るたびに周辺の偵察を重ねていた。そんなある年、一枚岩の右側にクマやカモシカが通っている獣道を見つけ出し、そこに手を加えれば人間も比較的安全に通過できそうだと考えた。そこで1951(昭和26)年9月に新たな道の開設に着手する。重太郎は著書『穂高に生きる』のなかで、新道工事の様子をこう書いている。

〈一枚岩を避けてその右を巻くだけといっても、長さは二キロにわたるからかなりの大仕事だ。高山の秋は短く、冬はすぐやってくるから、この仕事をおそくとも九月の末までには完成させなければならない。(中略)とにかく二週間の勝負ということで、人夫を督励し、朝五時前から夕方七時過ぎまで、薄あかりのうちまで工事をつづけはじめた。(中略)手足のかけ場の悪いところは石ダナをつくり、石を据え石をこめして、ルートを通すことに専念した。もし中途半端な道をつくっておくと、翌年のシーズンに登山客が迷って、遭難など起こしかねないからである。〉

工事中、雨が降ってみぞれになることもあった。作業場所は急傾斜で足場がわるく、大きな硬い岩にぶつかると作業の速度は鈍った。それでも2週間足らずののち、一枚岩の右側を巻く新しいルートを通すことに成功する。そのときすでに、新雪が岳沢から上を白く覆っていたという。

ちなみに、このときの道づくりには、人夫のほか、重太郎の妻のマキと娘の紀美子も現場まで行き、前穂高岳との分岐でテント生活を送った。マキの仕事はみなの食事の世話をすることで、まさに家族総出での作業だったのだ。テントを張った場所は、のちに「紀美子平」と命名されることになる。

穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い
現在の重太郎新道。紀美子平のすぐ下、一枚岩の鎖場を登る

重太郎はその後も、涸沢から白出のコルまでの道を大改修したり(1955/昭和30年)、白出沢の難所の岩場をダイナマイトで200mほど削って登山道にしたり(1958/昭和33年)と、道づくりに尽力し続けた。そして、そんな登山道へのこだわりは生涯衰えることはなかった。60代後半のころには「白出から西穂へ上がる新たな道をつくりたい」と語ったことがあったそうだ。さらに、山を下りた10年後の1983(昭和58)年、80代半ばのときには、白出沢の徒渉点で登山者が流される事故があったことを聞くと、山荘の経営を引き継いでいた二代目の英雄を呼んで「徒渉点に橋を架けるように」と指示をした。現役を退いたとはいえ、穂高の登山道で起こった事故に対しては「小屋をつくった者としての責任」を果たそうとしたのだろう。その姿勢は一貫しており、重太郎新道をつくったころとまったく変わっていない。

穂高岳山荘初代主人・今田重太郎が道づくりに懸けた思い
白出沢の登山道を補修する穂高岳山荘の従業員

登山者が安全に山を楽しめるよう、穂高の稜線に山小屋をつくり、周辺の登山道を整備してきた重太郎――。その精神は、100年の歴史を通じて代々受け継がれ、現在も山小屋の従業員たちによって登山道の補修や整備・管理が行なわれている。

『山と溪谷』2023年7月号より)

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この記事に登場する山

長野県 岐阜県 / 飛騨山脈南部

奥穂高岳 標高 3,190m

 奥穂高岳は穂高連峰の中央にそびえる盟主である。標高3190mは富士山の3776m、南アルプスの北岳の3192mに次ぐ日本第3位の高峰で、頂上に造られた2mを超す大ケルンの上に立つと第2位になろうかという高峰なのである。しかも堂々と大きい山容がいい。  山頂で綾線が分岐し、南西に延びる岩稜は馬ノ背からジャンダルムの奇峰を経て、間ノ岳、西穂高岳、焼岳へと延びる。  もう1つの岩稜は南東へ吊尾根となってたわみ、前穂高岳、明神岳となって上高地に雪崩落ちていく。  山稜は硬いひん岩(ひんがん、ひんは「王」偏に「分」の字)の破片に覆われ、岩屑の堆積した山だ。南東側は涸沢のカールが削り取った断崖で、南面は岳沢が急角度に落ち込み、上高地や乗鞍岳が見える展望の優れた山頂である。  山頂から100mほど西へ向かってから右に折れる主稜線を、うっかり見落として直進すると急傾斜にセバ谷に落ち込んでしまう。毎年のように事故を起こす「だましの尾根」だ。主稜線を北に下ると白出乗越で、穂高岳山荘がある。  頂上から南西に延びる岩稜は、奇峰ジャンダルムに続いている。前衛峰、門番といった意味のフランス語だが、むしろ独立峰と呼びたい山で、悠々としてとりとめのない奥穂高岳をきりっと引き締めている。  初登頂は明治42年(1909)の鵜殿正雄パーティで、槍ヶ岳への初縦走の途中だった。彼は大正元年(1912)には岳沢から天狗沢に入り、天狗のコルからジャンダルムを経て奥穂高岳の初トレースをしている。穂高岳開拓のパイオニアとして銘記されるべき人である。  穂高連峰の開拓は信州の梓川側が早く、山小屋もほとんど信州人が占めているが、奥穂高岳だけは、白出乗越に飛騨の名ガイド、今田重太郎が小屋を建てて登山者の安全を期した。1度登山者の不始末で全焼したが再建し、現在では近代的な山荘になっている。  一般登山道は涸沢からザイテングラートの岩尾根を登って白出乗越に出、奥穂高岳へ向かう。涸沢から白出乗越まで2時間、それから奥穂高岳頂上まで1時間。  飛騨側からは、新穂高温泉から蒲田川右俣を白出沢出合まで2時間、白出沢を登って白出乗越まで7時間。静かな谷のいいコースで、下りに使えば白出乗越から5時間30分で新穂高温泉に着き、バス停前の無料温泉で山の汗が流せるので、山好きに好評である。  上高地から岳沢を経て前穂高岳、吊尾根、奥穂高岳のコースは9時間で頂上に着く。少しきついが、登り甲斐のある道だ。

雑誌『山と溪谷』特集より

1930年創刊の登山雑誌『山と溪谷』の最新号から、秀逸な特集記事を抜粋してお届けします。

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