信越トレイルスルーハイク①加藤則芳さんの没後10年、再びスルーハイクに挑む
日本にロングトレイルの概念を持ち込んだ作家・加藤則芳さんが2013年にALSで逝去して10年。プロハイカーとして米国などのロングトレイルを歩きながら、地元山形県でロングトレイルの整備に取り組む齋藤正史さんは、雨水山から苗場山までの40kmが延伸され、総延長110kmのトレイルとなった信越トレイルをスルーハイクした。
文・写真=齋藤正史
信越トレイルとの出会い
僕が信越トレイルの存在を知ったのは、2005年にアパラチアン・トレイルを歩いていて偶然出会った加藤則芳さんと話した時だった。当時は、日本人で海外のロングトレイルをスルーハイクした人は片手で足りるほどしかいなかった。もちろん、アパラチアントレイルの沿線の人々には、「お前が初めて会う日本人だ」と言われることも多く、当時のアメリカの田舎では日本人の姿は皆無に近かった。
そんなことも影響してか、僕は加藤さんに出会い、トレイルを出発して初めて日本語を話した。ちょうど加藤さんがこの偶然の出会いの後にスラックパッキング(宿などに荷物を置き、軽量で長い距離を歩き、宿の人等にピックアップしてもらいまた宿に泊まる歩き方)で逆方向から歩く計画していた。 僕がこのまま歩いていくともう一度、2日後くらいにトレイルの山の中で再会するらしかった。
「また日本語が話せる」。お互いにそう思ったのかもしれない。2日後に再会し小一時間ほど立ち話をした後、ウエンズボロの町でまた会う約束をした。3度目にお会いした時に信越トレイルの話を聞いたと思う。
加藤さんはこの後、いったん帰国し、信越トレイルのオープニングイベントに出席し、再びアパラチアントレイルに戻ってくるという計画をしていた。 帰国後、僕は加藤さんを囲む集まりに参加するようになり、年に数度信越トレイルを訪れ、加藤さんに海外のトレイルの話をお聞きし、思い出すかのようにアパラチアントレイルの話を2人でしていた。
今思えば、アパラチアン・トレイルをスルーハイクした日本人ハイカーはわずかに3人。加藤さんは、あの日同じ景色を見て歩いた僕を、トレイルを歩いた同期として接してくれていたのかもしれない。
最初の信越トレイルスルーハイク
時は流れ、2012年に僕はプロハイカーとして活動を始め、PCT(パシフィッククレストトレイル)を歩き終えて帰国してから、PCTで出会った日本人ハイカー、ニノ、カンジ君、ヌーさんと共に、秋の信越トレイルをスルーハイクすることにした。
5日目、前日からひどい寒さだった。野々海キャンプ場にたどり着くと、工事の方がいて、ドラム缶で火を焚いていた。暖をとらせてもらうと「今夜は雪だろうな。管理棟の中で休んだ方がいいよ」と言ってもらえたので、管理棟で寝かせてもらうことになった。翌日、寒さで目が覚め外を見ると30cm以上の積雪だった。予想外の積雪に装備が足りなかったこともあり、踏破までわずか数キロという地点だったが、いさぎよく4人で断念した。
偶然通りかかった民宿の送迎の車に乗せてもらったのだが、ノーマルタイヤでも何度もスタックしていたことを思い出す。以降、僕は毎年何度か信越トレイルを訪れたにもかかわらず、いまだ信越トレイルをスルーハイクしたことがなかった。
延伸された信越トレイルを行く
その後信越トレイルは、加藤さんが望んだように2022年10月、念願の苗場山までの延伸を果たした。
23年5月、新型コロナウイルスが5類となったことが決断の契機になった。僕は、延伸した信越トレイルをスルーハイクしたいと思った。そしてどうせ歩くなら、加藤慧くんと共に信越トレイルを歩いてみたいと思った。そう、加藤慧くんは加藤さんのご子息だ。
慧くんと一緒にトレイルを歩くなら、高校生活でいちばん時間の取れる、高校1年生の時しかない。タイミングよく慧くんは春から高校1年生となったのだった。加藤さんが亡くなって10年目、きっとこれは偶然ではないのかもしれない。
加藤さんを知る方ならみんな、慧くんがなんとなくトレイルに関わってくれたらと思っていただろう。もちろん、僕も望んでいた。でも、慧くんに強制することはできない。
僕は、それとなく加藤さんの奥さん、奈美さんに慧くんの意思を聞いてもらっていた。すると予想に反して「歩きたい!」とすぐにそう返事したそうだった。
僕は拍子抜けした。加藤則芳さんの弟さんで、みちのく潮風トレイルの理事をされている正芳さんからは、あまりトレイルには興味がないようだから誘ってもダメかもしれないとは聞いていたからだ。
僕が慧くんと長い時間過ごすのは、慧くんが小学校4年生の時に山形の朝日少年自然の家のチャレンジキャンプ(4泊5日)に参加して以来だった。
加藤さんの生前、慧くんは自然に触れ、トレイルを歩く機会も多かった。亡くなった後は、時折、加藤さんの仲間と信越トレイルに行き、スノーシューをしたりすることはあったのだが、新型コロナウイルスの関係もあり、ここ数年はまったく自然に触れる機会もなく、ゲームやアニメを好む、いわゆる都会に住む普通の高校生と同じ生活をしているようだった。
お父さんのバックパック
一緒にスルーハイクするにあたり、慧くんの道具が必要だったが、則芳さんの使っていた装備は、形見分けなどで少なくなっていた。残っていたギアも経年劣化していて使える物はほとんどなかったようだ。しかし、歩くとなれば、装備も一気にそろえなくてはならず、準備は非常に難しかった。しかし、そんな事情を知って、イワタニ・プリムスからはテントや寝袋などを、SOTOからはバーナーやクッカーを提供いただいた。また、今回のスルーハイクにあたり、希望食品よりアルファ米製品を特別価格で提供いただいた。この場をお借りしてお礼を申し上げたい。
バックパックは、加藤則芳さんが愛用していたグレゴリーのパリセード82L(現在は廃盤)。私が以前グレゴリーの仕事をしたときにいただいたもので、偶然にも新品で保管してあったのだ。
僕がプロのハイカーとして活動することを決めた際、加藤さんは、ご自身の背負っていたパリセードを僕に託した。僕は加藤さんのパリセードで、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)を歩き、トレイプルクラウナー(アメリカ3大トレイルの踏破者に与えられる称号)となった。
慧くんにも、このパリセードを背負って歩いてほしいと思った。こうして使わずに保存していたのも、なにかの偶然なのかもしれない。 こうして、道具もそろい、僕と慧くんは信越トレイルのスルーハイクにチャレンジすることになった。そして歩くのは灼熱の夏。部活で忙しい慧くんが唯一休めるお盆休みとなったのだった。
この記事に登場する山
プロフィール
齋藤正史(さいとうまさふみ)
1973年、山形県新庄市出身。ロングトレイルハイカー。
2005年に、アパラチアン・トレイル(AT)を踏破。2012年にパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)を踏破。2013年にコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)踏破し、ロングトレイルの「トリプルクラウン」を達成した。日本国内でロングトレイル文化の普及に努め、地元山形県にロングトレイルを整備するための活動も行なっている。
延伸した信越トレイルを歩く
2021年、関田山脈に延びるロングトレイル・信越トレイルは、天水山から苗場山までの区間が新たに設定され、合計110kmに延伸された。構想段階から信越トレイルに関わった作家の加藤則芳さんが他界して10年。プロハイカーの齋藤正史さんが加藤さんをしのびながらトレイルを歩く。