信越トレイルスルーハイク②夏の苗場山へ
日本にロングトレイルの概念を持ち込んだ作家・加藤則芳さんが2013年にALSで逝去して10年。プロハイカーの齋藤正史さんと加藤慧くんは、延伸された信越トレイルをスルーハイクすべく、苗場山へと向かった。
文・写真=齋藤正史
信越トレイルの延伸
2021年のコロナ禍のなかで天水(あまみず)山から苗場山まで延伸した信越トレイル。延伸は加藤則芳さんの念願でもあった。「トレイルは長ければ長いほどいい」。そんなふうに話していたことを思い出す。
苗場山までの延伸計画は、晩年の加藤さんから聞いたことがあった。飯山に毎年来ているとはいえ、苗場山までの延伸を聞いても地理的に今一つピンとこなかったことを覚えている。だからなのか、当時加藤さんが話していたルートはまったく記憶になかった。どんな道のりだったのだろう。
加藤さんが亡くなってからも、たびたび信越トレイルクラブのみなさんから延伸の調査の話を聞くことがあった。さて、信越トレイルクラブはどのようなイメージでどのような道を選択したのだろう。
スタートは祓川ルート
今回、苗場山山頂からトレイルをスタートすることにしたのは訳があった。加藤正芳さん(則芳さんの弟で、みちのくトレイルクラブ理事)から「苗場山スタートにしたほうが、累積標高は低いような気がする(特に森之宮駅までは)」というアドバイスがあったからだった。
信越トレイルをスルーハイクする場合、斑尾(まだらお)山山頂からスタートするハイカーが圧倒的に多い。僕も苗場山から歩く発想はなかった。初めてトレイルを歩く慧くんに負担をかけないことを考えると、苗場山スタートがよいのかもしれないと思った。信越トレイル事務局にも相談し、今回特別にお手伝いいただくことになった。
8月11日、トレイルの初日。僕は一足早く飯山に着き、斑尾山の駐車場に車を停め、信越トレイルクラブ事務局の佐藤有希子さんの車に乗せてもらって、越後湯沢駅をめざした。佐藤さんとは、2022年の年末に台湾で行なわれた「第4回アジアトレイル会議」でお会いして以来だった。佐藤さんは、日本で数少ないアパラチアン・トレイルのスルーハイカーでもある。日本人ハイカーの多くは、パシフィック・クレスト・トレイルを歩く。はっきり理由はわからないが、パシフィック・クレスト・トレイルを歩く日本人ハイカーが多く、歩くための情報もかなり多いからかもしれない。
信越トレイルクラブの事務局にはもう一人アパラチアン・トレイルのスルーハイカーがいる。それが鈴木栄治さんだ。2016年、僕はインターナショナル・アパラチアン・トレイルを歩き終えた後、ニューハンプシャー州にあるコーホーズトレイルを歩くため、ニューハンプシャー州のゴーラムというアパラチアンハイカーの集まる町に滞在していた。この時、鈴木さんとやり取りをしていたのだったが、わずか数日スケジュールが合わず、会えなかった。その後、鈴木さんは信越トレイルクラブに勤めることになり、日本でようやく会えたのだった。
アメリカでは、最初にアパラチアン・トレイルを歩き、その後パシフィック・クレスト・トレイルを歩くという流れが一般的でもある。今思えば、すてきな出会いや景色、歴史・文化に触れるアメリカで最も愛されているアパラチアン・トレイルが僕のトレイルのスタートだったからこそ、こうして歩くことを仕事にできたのかもしれない。きっと、佐藤さんも鈴木さんも同じなのだろう。信越トレイルは、そんなアパラチアン・トレイルをモデルに作られている。
ハイカーとの出会い
越後湯沢駅に着くと、すでに到着していた慧くんを探した。数カ月前に会ったばかりの慧くんだったが、また少し背が伸び、高校生になり大人びたように思えた。
苗場山の祓川(はらいかわ)登山口までは、道の駅付近まではバスがあるが、その先は車道を歩くことになる。日数的にも余裕がなかったので、今回は登山口まで送迎してくれるという佐藤さんの厚意に甘えさせていただいた。
車に乗り込み、3人で話しながら登山口をめざしていると、トンネルの付近に1人のハイカーらしき人が歩いているのを見かけた。
「ナンパしていいですか?」という佐藤さん。「もちろん」と僕が答えると、トンネルを抜けて少し広くなった路肩に車を停めた。結局、一緒に乗っていくことになった。
歩いていたハイカーは、今井麻子さん。東京在住で、会社の夏休みを利用して信越トレイルをセクションハイクしに来たとのことだった。時間的にちょうどよいバスがなく、「歩いちゃえ」と車道を歩いていたそうだ。
初日 払川登山口→苗場山頂(苗場山頂ヒュッテ泊)約14km
無事に登山口に着くと、僕たちは佐藤さんに見送られ出発した。他人から見たら、この3人グループはどんな関係性なのか、想像もつかなかったかもしれない。登山口の標高は1300mを超えているのだが、この日はものすごく暑かった。慧君の荷物は約20kgほどだった。82Lのパリセードがパンパンに膨らんでいた。途中から今井さんが先を歩き、僕らは休憩をこまめに取りながら登っていった。
こうして慧くんと一緒に歩いていると、いい意味で小学生の頃と変わらなかった。コロナで会えなかった数年の空白を感じることはなかった。
下ノ芝付近に着くと、登山道は一気に斜度が増した気がした。少し先の見晴らしがよい場所で昼食を食べると、ペースは一気にダウンした。初日だし、焦らなくてもいい。周りを見ても、僕らほど大きな荷物を背負っている登山客はいない。少し登っては少し休むことを繰り返す。スローペースは、結局苗場山に着くまで続き、苗場山山頂に着いたのは15時頃だった。
「マサ、これだけ歩いても今日はトレイルを歩いていないんだよね?」と慧くんが聞いてきたので、「そうだよ、今日は一歩もトレイルを歩いていないよ」というと、「エー」とでも言いたそうな顔をしていた。
そう、今日はトレイルを歩くためのオフトレイル(トレイル以外)を歩く1日だったのだ。
しかし、僕たちのオフトレイル歩きはこれで終わらなかった。山小屋に着くと、水道が止められていた。今シーズンはまったく雨が降らないらしく、水がほぼない状況だった。僕らの手持ちは1Lもなかった。ミネラルウォーターは結構な金額だった。晩ごはん・朝食・翌日のことを考えると、手持ちの水は明らかに足りなかった。僕たちは、今来た道を水場のある場所まで下ることにした。往復しても、日暮れには間に合うくらいの距離だった。ライトだけを持って空身で歩いた。
歩き始めの初日は、高校の運動部で鍛えている慧くんでもつらかったようだ。薄暗くなり始めたころ山小屋に戻った。日中とは明らかに違う気温に、ウェアを着こんで外で食事を作った。三六〇度広がる満天の星が僕たちを照らしていたが、食事が終わるころには一気に霧に包まれたのだった。この日、僕には平気そうな顔を見せていた慧くんも、すぐに眠りについたようだった。こうして、トレイルを一歩も歩かない僕たちの長い一日は終わった。
MAP&DATA
参考コースタイム | 4時間20分 | 総距離 | 約7.0km |
---|---|
累積標高差 | 上り:約1,125m 下り:約193m |
この記事に登場する山
プロフィール
齋藤正史(さいとうまさふみ)
1973年、山形県新庄市出身。ロングトレイルハイカー。
2005年に、アパラチアン・トレイル(AT)を踏破。2012年にパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)を踏破。2013年にコンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)踏破し、ロングトレイルの「トリプルクラウン」を達成した。日本国内でロングトレイル文化の普及に努め、地元山形県にロングトレイルを整備するための活動も行なっている。
延伸した信越トレイルを歩く
2021年、関田山脈に延びるロングトレイル・信越トレイルは、天水山から苗場山までの区間が新たに設定され、合計110kmに延伸された。構想段階から信越トレイルに関わった作家の加藤則芳さんが他界して10年。プロハイカーの齋藤正史さんが加藤さんをしのびながらトレイルを歩く。